物語の核心に触れる部分がありますので原作、映画をご覧になった方のみお読み下さい。
径子「すずさん、広島へ帰り!」 原作は2コマ
「この世界の片隅に」嫁入りしたすずさんをいびり出そうとした義姉の径子さん。これはこれで彼女なりの親切心と自身の生き方と婚家での苦労、対立とそこからきたストレスの八つ当たりにも見える展開になっていてこの点の解釈に異論はないと思う。
問題は円太郎らの「そうしたらええ」的などこかションボリとした暗い声はどういう事なのかであろうか。
原作を見るとこのシーンは実はたった2コマで終わっている。決め台詞を決めたと思っている径子さん、それに呼応する両親の台詞のコマがあって、次にすずさんのあっけらかんとした「あ、里帰り」で前のコマがあっさり否定される。これ、最初のコマは径子さんが決めたった感満載な解釈していて、次いでそれを勘違いしたすずさんの解釈が入り実はサンさんや円太郎、周作はそちらで解釈していたというオチになっている。
こうの史代さんは表現についてかなり考えて描かれている。そしてこのコマもちゃんと読み取れれば視点転換があるのが見えるのですが、筆者自身は原作では読み落としていたところだった。
こうの史代さんは表現についてかなり考えて描かれている。そしてこのコマもちゃんと読み取れれば視点転換があるのが見えるのですが、筆者自身は原作では読み落としていたところだった。
映画で踏襲しつつ再構築・拡張された表現
映画も基本的にはこの構図踏襲しているが、広島江波の実家を入れて少しホラーチックな展開に仕上げているのは映画側の遊び心か。「えっ」と思わせつつキセノさんがしっかり落としているので笑いに包まれてますがドキッとする展開であるのは確か。
径子さんの決め台詞で一旦場面が暗転。広島江波での会話からすずさん視点の同じシーンの回想が入る。北條家の義父母と夫はあっけらかんと「気付いてやれず悪かったのお」と笑顔で送り出している。そして径子さんの計算外の展開に悔しがる顔。
原作に対して映画はその意図を踏襲しつつ拡張した所があったりする。これはその良い事例の一つだと思う。(もう一つ目立つ所は「晴美ちゃんのランドセルの消失」(昭和20年6月)でしょうか)
余談:呉市立美術館の企画展でのアニメーション制作の紹介シーンもこの径子さんの悔しがる顔でやられていた。
最初はすずさんにあたりがきつかった径子さんですが、どこか少し頼りなさげな弟(暗いんじゃなくてそっちかい!)、自分とおおよそ生き方が違っていて中々理解できないけど何か芯があると知った義妹にとっては頼り甲斐のあるお姉さんであるのは確かだと思うのです。