映画、原作の核心部に触れています。ご覧になっている方のみ推奨です。
昭和20年6月。工廠で負傷した円太郎が海軍病院に入院中と分かり、径子さんが面会した。そして懐中時計の修理を頼まれたからと翌朝下関へ晴美ちゃんと向かう事になる。
朝、見送りに行くすずさん。晴美ちゃんの背中にはランドセルがあった。
国民学校の前を通りながら径子さんと晴美ちゃんは「学校に行かなくてもええん?」「どうせ体操と土をいじっているだけじゃ」
そして呉駅で径子さんは娘をすずさんに託して切符を買っている間に円太郎の見舞いに晴美を連れていって欲しいと言う。
この時、晴美ちゃんの背中からランドセルが消えた。
病院で円太郎を見舞ったすずさんと晴美ちゃん。すずさんは径子さんの下関へ行く理由を円太郎から聞かされた。
病院を出ると港内が見えるところがないのかと晴美ちゃんが言い出す。そして呉空襲に直面する。防空壕で怯える晴美ちゃんを安心させるために径子さんと晴美ちゃんはを描くすずさん。そして空襲後、駅へ戻ろうと塀沿いの道に戻って歩いていると塀が崩れた一角があった。港内を見ようとする晴美ちゃん。離れた角からはオート三輪の消防車が停まってすずさんたちに時限爆弾の危険性を呼び掛けるが他の消防車が通りかかりサイレンを鳴らしながら通っていったためにすずさんは聞き取る事が出来なかった。そして土砂が大爆発する。B-29の置き土産の時限信管付きの爆弾が炸裂して晴美ちゃんの運命が決した。
すずさんは後で自問自答する。もしもあの時、風呂敷を右手で、晴美さんを左手でつないでいれば。晴美さんではなく自分が死んでいれば助けられたのではないかと。
運命と偶然
本作メインパートの最後は原作ですずさんのみぎてが書いた「しあわせの手紙」を歌詞に直してコトリンゴさんが歌っている。この歌詞は晴美ちゃんを含め出来なかった様々なちょっとした事を歌い上げられている。晴美ちゃんの運命は学校前での学校に行かなくてもいいという会話の前後で決した。それまでは国民学校に行く(下関に行かない)という選択肢があったが学校から呉駅前にいく間になくなった。そして観客に見えていたランドセルが見えなくなった。まるで長ノ木の家にランドセルを置いて来ていて最初から背負ってなかったかのように。
この作品は登場人物の意思と史実、そして想像力のせめぎ合いで出来ている。原作段階からよく練りこまれており、アニメーション映画化では原作の様々な試みを受け止めた上で最良の表現を目指して作り込まれている。呉駅前を行進して海軍工廠へ出勤する女子学生たちは映画で追加されたシーンとなっていて細かい所は変更が施されているが、魔に魅入られたかのようにあの瞬間へと突き進む構図は同じ。
本来全ては偶然。でも物語はそれを運命のように見せる。
史実と想像の世界
本作は史実考証に対する評価が高いですが、昭和20年3月以降の描写はそれまでに積み上げられてきた登場人物たちの関係を元に内面を掘り下げていく事になる。魔に魅入られて神様(なのか知らないが)に早く呼ばれてしまった子ども。
そしてそのような結果を招く最初の決断をした母親と祖父。
直前に爆発する事に気付くも手遅れで姪を失い自らも右手を失った主人公。
誰も悪くない。それでも径子さんはすずさんを責めずにいられなかった。
この後の径子さんとすずさんの関係は一見何も起きていないようで誤解があって厳しい展開となっていく。
焼夷弾空襲の夜、径子さんとすずさん、サンさんが協力して不発弾の火を消した。翌朝、径子さんと話をできる関係に戻れたと思ったすずさんがもらった焼きジャガイモを分けようと径子さんに声をかけた時、径子さんは気付かず防空壕で一人にしてしまった晴美ちゃんの元へと行ってしまい、すずさんはまだ許してもらえてないと受け取った。
二人の仲が戻るのは結局8月に入ってから。径子さんが晴美ちゃんの事で責めた事を詫び、そのあとできつい事を言いながらも最後に「すずさんの居場所はどこでもええ。遠慮なしに自分で決め」という言葉を贈って、妹としてすずさんを認めた事で決着する。
だから戦後の「UMA〜」は見ていてうれしくなるんですよね。