2017年4月18日火曜日

鏡としての映画「この世界の片隅に」

ネタバレがあります。物語の核心部について触れていますので映画と原作をご覧になった方のみお読み下さい。



『この世界の片隅に』と凶器としての「普通」』を読んだのですが、私には事実誤認と思える事項が多いように思えたので少し考えをまとめてみた。

改訂履歴:
2017/418 3:40 姦通罪について追加
2017/4/2 15:58 文献・Webリスト追加
2017/4/2 13:57 文末調整
2017/4/2 3:55 公開






























「普通」と「大人になる事」

  昭和19年12月、這々の体でようやく呉帰投した青葉から哲がやってきた日。周作、哲、すずさんの三人の間に起きた出来事はそれぞれ全く違った考えを持っていたと思う。
  • 周作はある経緯からすずさんの名前を出して無理やり嫁にしたから哲に連れ去られても仕方ないと思っていた。
  • 哲は自分が普通から外れた人間であり、人の幸せと縁がなくなったと思っている。その中で自身が消えてしまう前にすずさんを広島に返してやりたいと思っていた。
  • すずさんは原作だと周作が一夜限りの不倫をされても構わないと思っていた事、実際に哲がそうしようとした事について二人がすずさん自身の意思を考えてない事に怒っていた。※

 記事の著者は大きく勘違いされていますが、哲の言うすずさんの「普通」さは、哲自身が「普通」ではない事の対義語として存在します。そしてそれは「全部当たり前のことじゃのに、わしはどこで人間の当たり前から外されたんじゃろうかのう」とつながっています。この台詞は青葉の「マニラでの負傷」ともつながる。青葉が攻撃機の至近弾の水柱を浴びるシーン、誰とも知れない艦内帽が海中に沈むシーンがある訳ですが、「マニラでの負傷」とは青葉の損傷の事だけではなく乗員、つまり哲の上官である士官や下士官、同僚、部下たちの戦死・負傷も意味しているはず。更に他の艦に乗っていた同期たちもレイテ沖海戦の中で斃れていったはず。

 昭和13年2月に哲の代わりに描いた絵。これは哲の兄を亡くしたショックで酒を飲んでいるらしい両親を見たくなくて描かずにいた事に対して、じゃあ、うちが描くと買って出た一種の喧嘩です。すずさんにとっては哲に対して描いてぶつけた事に意味があるのであって、絵自体のその後はどうでもよかった。だからその後の展覧会出品は忘れ去っている。すずさんにとってあの時の記憶は哲に絵を描いた事とその中で交わした波のうさぎの会話ただそれだけ。だから昭和20年円太郎の見舞い、そして天高くあがっていく青葉のシーンで再び波のうさぎが言及される。

 記事ではすずさんの「普通」について論じられてますが、著者自身の現実の問題認識を示されているだけに思える。映画が公開された当初多く見られた批判が本作の内容を書いているようで実は自身の認識を鏡に映し出すように論じられたものが多かった事を思い出してしまう。申し訳ないですが、今回の「普通」論にはそういう一面はあると思います。

※敗戦後法改正で廃止されるまでは姦通罪が存在しており妻の不貞は違法。但し夫による親告罪(その前に離婚手続きが必要)となっており、夫が容認していた場合は罪は成立しないものとされた。昭和22年10月系法改正により廃止。(Wikipedia 姦通罪より

すずさんの「大人になる事」

  すずさんに縁談が来た時、江波へ舟で向かう際に「うちは大人になるらしい」と内心で語っていて成人儀礼としての認識がある事が示されている。裁縫は祖母に教えてもらった時は決して得意ではなかったが、もんぺを急遽作った際は間違えた手順でややこしい事になったはずなのに見事に縫い上げて余芸で晴美ちゃんに手提げ袋まで作っている。裁縫が苦手な人にあんな芸当は無理です。
 すずさんは10歳の時に「子供でおるのも悪うはない」と言い切っていて、のちに幼馴染の哲に「海苔漉きと絵描きしか能のない女」と見切られている。そしてその事を否定的には思っていない。問題の裁縫にした所でイトにそんな事では嫁に行けないよと言われても、行かないもんと答えている。もし周作と結婚していなければ、多分敗戦までいればすみちゃんと同じように女子挺身隊で工場勤めしてしながら手が空いている時に絵を書いたりしていただろう。

 すずさんの思考のテンポは独特で語るのが苦手な所があるのは事実で、その事が戦争の狂気から一歩引いた立場を保っていたという指摘は同感です。(その事は昭和20年の呉空襲の激化とその中で起きた出来事によって変わっていき、映画ではその事が後半の重要なテーマになっている)

 径子さんは職業婦人&モガ(モダン・ガールの略称。※W99参照)から恋愛結婚、そして一転して二児の母、良妻賢母として夫と共に時計店をきりまわし、夫が亡き後は義父母と対立する中で建物疎開で店がなくなったのを気に離縁して晴美ちゃんだけ連れて実家に戻ってきている独立独歩の出来る人。
径子さんがどの程度すずさんの事を理解するようになったのかは謎が多い。ただ初めてあった頃は径子さんが義父母と時計店をどうするかでもめていた頃であり、周作が名前を出しただけで嫁に来たすずさんを八つ当たり先にしていたに過ぎない。そのような問題を抱えていなければ、あそこまで踏み込むような真似をしない人だと思う。

「夕凪の街 桜の国」と「平凡倶楽部」

  原作は本作の前に「夕凪の街 桜の国」が描かれており、そちらで原爆症とその事で身内を亡くした家族のその後が描かれており、広島と原爆というテーマを避けたというのはちょっとついていけない。
「この世界の片隅に」を何故こうのさんが描かれたのかについてはその経緯を「平凡倶楽部」の「戦争を描くという事」「なぞなぞさん」の2編で説明されている。一種の解題でもあるので未読の方は是非読まれる事をお勧めします。(電子書籍版も出てます)

 他の批判の方の意見を読んでいても思うのですが、本作は原作にしろ映画にしろ結論を与えてくれるようなやさしい作品ではありません。そういうものを求めるのなら他の作品を当たるべきじゃないかと思う。
この作品は特に映画は徹頭徹尾すずさんの目線で追体験する事が貫かれています。結論は本作中には存在しません。呉から見た情景、そしてあの子が見た情景を通してのみ呉と広島で起きた事を目撃する事になります。そこから先、例えば平和公園(中島本町)や原爆ドーム(産業奨励館)を実際に見に行ったり、資料を調べたり知る事が始まる。終点ではなくあくまで起点なのです。
 この映画では描き方がぬるいという人はそんな事を言うより知りたい人に対して情報発信したほうが絶対届きます。映画を見た事で心の中に情報を受け止められるフックが生まれている。そのフックを無視して自分の問題意識を語られたいのなら、ご自身で作品を描くべきです。

割愛されたエピソードについて

  リンさんとテルちゃんにまつわるエピソードがない事を批判されていますが、制作費の調達の問題でプロデューサー側から尺を短縮するように求められて本編2時間という枠で本作が完成しています。
完全版構想は映画公開段階から言われていて、プロデューサーサイドからも興収10億円超えたらやるといった話も出てます。カットされた尺は30分と言われているので、おそらくそれだけあればリンさんとすずさんが桜の木に登るシーンも見られるのではないでしょうか。

 なお2時間の尺にした際には、哲の訪問の際の晴美ちゃんの(原作)「一等巡洋艦ですね」→(映画)「甲巡ですね」とする事で涙ぐましいレベルで短縮されている。(※W1)
また昭和13年2月のシーンでも哲の兄が亡くなった事を直接示す描写を一切なくす(他のシーンから類推可能)など物語の骨格レベルまで削ぎ落として実現している。同じ2時間でリンさんとテルちゃんのエピソードを全て含めて映像化というのは到底無理な事です。

 「居場所」について「代用品」エピソードがないからわかりにくいと言われてますが、すずさんの気持ち自体は昭和20年5月の周作が法務一等兵曹転換になるので3ヶ月訓練で不在になると言われた際に「家でまっとります。でないと顔を忘れてしまう」と言っている。「代用品」自体は一度終わっている話で広島に帰る話に直結はしていない。
 リンさんがすずさんに「居場所」の話をしたのは、すずさんが子供を産む事が嫁の役割だと思い込んでいたから、その常識が必要なのかと揺さぶるためだった。実際、北條家の人々はのちに周作とすずさんが連れ帰った子供を受け入れていたりもする。(原作ではリンさんを拒否した北條家が他所の子どもを引き取る事を受け入れたのは何故なのか。戦争に負けたからなのか。でもあれで周作とすずさん、径子さんは確実に救われている。あの子が一方的に救われた訳ではない。双方向の救いだった)

 リンさんとすずさんは原作だとお互いの関係について気付いていて、少なくともすずさんはリンさんの事を親友だと思いつつ、一方で周作を取られたくないという感情もあって関係を壊したくないから触れないという選択をしている。それに対してリンさんは思わせぶりな事は言ってもすずさんのその気持ちを壊したくないからか踏み込まない。
私には非常に不安定で生々しい関係に見えてしまう。「美しい」とすればそれは二人の相手を思う気持ちであって、渦中の周作が入れば壊れかねないものを孕んでいるし、昭和20年4月の最後の邂逅は実際に起きかねないものですずさんはそれ故に動揺もしていた。

 昭和20年7月の「帰る、帰る、広島へ帰る」は晴美さんと右手、リンさんを失った事、径子さんとの関係が壊れた事、嫁として主婦の炊事・洗濯ができない事(これはすみちゃんとも認識共有されていた)が積み重なって起きている。
私にはすずさんが受けたダメージがオーバーフローしてしまったように見える。
 そしてその欠落を埋めたのが「日々の生活が戦い」という戦争へ与する事だった。この決意も映画だとその次には敗戦の玉音放送となってあっという間に砕かれてしまい、ハシゴを外された怒りから「まだ左手も両足も残っているのに」という叫びにつながっている。

 なおカットしたエピソードをなかった事にはせず、クラウドファウンディングのエンドロールではテルちゃんの紅を用いて描くリンさんの物語という形でも補足が入っています。ここを見ればリンさんがどのような境遇で呉に来たのか分かるようになっている。(原作からおそらくは意図的な矛盾が含まれていて、すずさんとの出会いで実際どのような事があったのか曖昧なところが含まれる)

あと30分間尺が延びたら 完全版への期待

  戦前・戦中の女性の立場に関わる部分はリンさん、テルちゃんのエピソードに大きく関わっている。この指摘はその通りだと思う。ただ、その事を描くには台詞も多く尺も相応に必要。
 ちなみに本編2時間の時間配分は昭和20年2月までを冒頭の1時間で進め、昭和20年3月から昭和21年1月までをだいたい1時間で配分されています。後半の昭和20年は実質3月から8月までといって良いと思います。あと30分の尺を増やせたら、どれだけの事が描けるのかと考えると少なくともリンさんとテルちゃんのエピソードは含められるだけの時間はあると思うので完全版はぜひ実現して欲しいと思ってます。

最後に

  このように書いてみるといろいろと気付く事もありましたし、ジェンダー論は興味深い記述も多かったと思います。本作は広島や長崎で起きた事知っている人に対してよりも、知らない人たちに対して体験を通じて最初の一歩、起点を与える作品だと思います。
なので何もかもこの作品に求めるのは止めて欲しい。この方向で映画を通じて広島や呉の事を知った人がもっと知りたいと思うようになる事はないと思います。それは勿体無い事ですから。

参考資料

(書籍)

  • 絵コンテ 片渕須直・浦谷千恵/原作 こうの史代『「この世界の片隅に」劇場アニメ絵コンテ集』
  • こうの史代『この世界の片隅に』上・中・下巻(原作)
  • 『「この世界の片隅に」アートブック』
  • こうの史代『夕凪の街 桜の国』
  • こうの史代『平凡倶楽部』

(インターネット)