2017年4月8日土曜日

「ひるね姫」二つの世界の謎

「ひるね姫」ようやく見る事ができた。
心羽(ココネ)が魅力的なのに何故機能してないのか。脚本構成の欠点が目立つ残念な作品でした。



矛盾する夢と現実世界の設定

夢の世界と現実がシンクロして進むとされるが別にその事を作り手が信じきれていないらしく矛盾を孕んだまま放置している。
  • 1歳上の幼馴染が何故同じ夢を見られるのか。
  • 何故ココネはすぐ寝てしまうのか。
ただ都合良く存在する設定が目立つ。

夢の中で出てくる「王子様」が誰なのか全く隠しておらず、その為に姫の正体も観客には程なく分かる。視点が違うのでココネが気付かないのは別に構わないが観客がすぐ気付くような程度の謎はどうなのか。その後起きる出来事で驚かせばいいのか、その程度の志なのかと思ってしまった。

明るい地方

「君の名は。」は糸守において衰退する地方、狭い人間関係描写も容赦なく入れていた。路面が荒れても放置されたままの道路。巫女の舞の雅楽はカラオケ。
サヤカと三葉は田舎ぶりで盛り上がる。そしてテッシと三葉を評して「土建屋と町長の子どもも仲がいい」と嫌味を言い放つスクールカースト上位らしい松本(ちなみに神社の氏子総代は松本、勅使河原両家の名前が出ているので町の有力者の息子の可能性がある)深くはやらないものの「みんないい人」なだけの描写はしてないのですよね。
 それに対して本作はココネが学校に行くとみんな挨拶してくれるという明るい地方ライフを見せている。父親の仕事はお金より農作物で支払われていて娘が進学を心配している。(進学時の学費問題は本来もっと深刻な話のはず)
そんな2020年。実に明るくてリアリティがない。背景美術がハイキーに仕上げられている事と相まって不思議な「現実」を描いてしまっている。

魔法のタブレットとエンシェン・ト・ハート

エンシェンが魔法使いというよりも天才プログラマーらしい事は劇中の魔法のタブレット(他の物に置き換えられない判断が?)にコードが出ているという所で示されている。それが呪文として働いている対比はあまり良い語り口とは思えない。
「高度な技術は魔法に見える」有名な言葉ですが、魔法は舞台裏を見せない。見せたとしても、もっと魔法らしく解釈されるのではないか。
この辺りは文明崩壊後の中世的な世界を描いた他の先行作と似た事をやってる割に退化してしまっている。

エンシェンが誰なのか。予想がついてしまう問題は冒頭に挙げた。そしてその事をココネが知ってしまうタイミングも早い。その瞬間、本作の主人公がココネから両親に変わってしまっている。本作はココネが主導権を持って成長したりする作品にはなっていない。ココネが母親の事、父親の事を知るだけの物語になってしまっている。わりと傍観者になっているのですよ。だから夢の世界での問題の解決がココネではなく、父親によってなされてしまう。そしてそれを助けに行ったはずのココネが結局は両親に助けられてしまう。
どんだけ娘好きなんだよ、お父さんよ、と思ってしまった。(新聞社のアニメ担当記者の方が「娘の父親好き好き映画」だと評しておられて大変納得してしまった)

「王国」を襲う敵

王国を襲う謎の巨人は専務執行役の心の中に潜む貪欲さ、嫉妬心あたりが表象化したもののように見える。王はそれを巨大機械兵で倒そうとするが倒せないというお伽話。そもそも王の愛する人の手による操縦と人の心の暗部はまるで違う存在で同じ軸上で争えるものではない。

自動車におけるメカトロニクスとソフトウェアの攻防は割と早く起きていてハルバースタム「覇者の驕り」でも取り上げられていた。ソフトウェア技術は低燃費、排ガス規制などでも不可欠なテクノロジーである一方、昔ながらのメカエンジニアやその思想を知る経営者はこれを嫌った。

アメリカの宇宙開発初期では軍パイロットあがりの飛行士が操縦させろと技術者にねじ込んだ。
民間機だとボーイングは操縦桿にこだわり人間系が自動操縦系をオーバーライト出来る事にこだわった。エアバスはサイドスティック、自動操縦系優先(人間の誤操作排除)を重視していて哲学論争的な事がなされていた頃があった。

なので映画の主題自体は新しくはない。古臭いとすら言って良く自転車の再発明を見せられている面がある。

自動運転を否定していたのは専務執行役ではなく会長。会長が守旧派として動いた理由に例えば娘への禅譲で反会長派を抑える為だったとかもっと奥行きのある話のはずだが、薄っぺらく何もない。

会長が自動運転否定から娘のモニュメントとしての自動運転支持に心変わりしている。なのに襲いくる巨人には変わりがない。

そもそも魔法である自動運転技術を狙って襲ってきている訳ではなく、またそれを守るのは資本、政治の論理であって技術自体ではない。またその対巨人兵器が人の手で操縦されるものなので、自動運転支持に変わった会長の心理とも同期していない。

母親の死と魔法

母親が亡くなったのは割れたタブレット(ココネの年齢、2020年から考えると2003年あたりのはずですが)、エンドロールの光景からすれば、自動運転検証中の事故のはずなので、ココネが聞かされたお伽話は父親の改変を疑わざるを得ないのか。
巨人と戦うために自動運転技術を入れた機械兵の「着火プラグ」を再挿入する際に亡くなった事が夢の世界では起きているが、実際には当の自動運転技術で亡くなったように想像させる展開がエンドロールで描かれていて気持ち悪い。会長にせよ父親にせよ自動操縦技術を否定する方がよほど自然に見える。

会長や役員たちとの確執で会社を飛び出して自ら作った会社?(その時の仲間がSNS連中なのだろう)で開発を続けていた時に実験など関わっていた父親と恋に落ちて結婚したのは分かる。その時のソースコードを今更手に入れようとした専務執行役については17年ぐらい前のコードが何故必要なのか説得力がない。
もし父親が開発を続けていたのだとしたら、専務執行役が会社資産の奪取だと主張して警察を動かしたという設定はそもそもあり得るのか疑問。

父親の拘束は任意同行には見えないし、もし任意なら携帯など取り上げるのは無理。令状によるなら横領や窃盗あたりの容疑になるが娘が飛び出した後やっていた開発は会長の会社と関わりがあるようには思えない。

母親の魔法の謎

母親がまた何かあれば助けるからと言うのもどう実現されているのか分からない。現状天才プログラマーがこんな事もあろうかとコードを仕込んでいたとしか思えない。高度な判断をやらかしていてそんなのあるか?
サイドカーが勝手にやってきて二人を救おうと動くというのはどうにも変だしプログラムでは解決のできない超常現象としか思えない。問題はそういう現象をわりと否定する演出がそこかしこに入っていて合わないということ。夢の世界と現実が断絶しているはずなのに夢の世界では幼馴染の1歳上の男の子も出てくるし、現実世界ではサイドカーが謎の行動をとっていてはっきりした理由は示されない。結局、夢も現実もリアリティラインを破綻させるだけさせて放置しているようにしか思えない。

さいごに

本作は夢の世界ハートランドと現実が鏡像対応しておらず解決すべき問題が見えにくい事、ヒロインのはずのココネが実はヒロインではない事(両親が実質的主人公)の2点が致命的だったように思える。
エンドロールで描かれた父親と母親の馴れ初め、そして母親が何故亡くなったのか暗示するシーンなど見ているときちんとこれらを描いた上でココネに何があったのかきちんと解き明かさせていけばいい物語になったはずだと思うのですが。どうして「ひるね姫」という世界観が一貫させられなくなる二軸構造をとる事になったのか。ココネの魅力を考えるときちんと成長する物語として見せていればきっと面白い作品になったと思うので残念です。