2013年3月24日日曜日

[映画] クラウドアトラス

2013年3月20日(水)マチネー時間帯に見ました。
傑作でした。秋に予告編を見た時は「なんか変な映画」だと思っていた自分が信じられない。
※ネタバレあります。






I. 原作について
原作小説はデイヴィッド・ミッチェル「クラウド・アトラス」(河出書房新社)。
1848年の南太平洋を皮切りに6つの中編小説の前半部が語られ、未来で折り返して過去へ戻って物語を閉じて行くというマトリョーシカ構造(by著者)という作品。
カタルシスはありませんが、過去でも未来でも人類は搾取する側とされる側に分かれ、それを正当化する理屈を産み出し、それを打破する為に戦う人たちがいた。その終わりなき繰り返しの物語を描き出したのが本作だと言えると思う。

彗星の痣を持つ登場人物達が配された事で輪廻説がありますが、その事自体信じていない人でも楽しめる構造にはなっています。私は繰り返しの物語の象徴として受け取ってます。(輪廻説は物語が簡単になり過ぎて嫌だから、というあたりが理由ですね。著者も何も言っていなかったと思う。)



II. 映画について
小説がマトリョーシカ構造に対して、映画はなんと6つの物語が並走(というよりもはや疾走)する形式で進行します。
物語の口火は老人が昔語りをし始めるところから始まり、それぞれの物語も走り始める。
すごく野心的な仕掛けですが、見事に成功。小説だと読者が読んで理解する必要がありますが、映画は視覚的に区別が付くので思った以上に状況理解は可能。しかもそれが物語が異なる楽器の様に響き合うシンフォニーを奏でているという希有な作品。
※以下サブタイトルは全て原作のものを流用。(映画としては明言はされなかったし、また設定が変わっていて合わなくなっているものもあります)


1. アダム・ユーイングの太平洋航海誌
1848年南太平洋。プランテーションの取引(奴隷)について契約を締結してアメリカに戻る帆船の中でストーリーが展開。わりと原作通りの展開。

この物語の時代が奴隷制度を巡ってアメリカが二つに分かれて激突する南北戦争(1861年〜1865年)の10年以上前を舞台にする。アメリカ自体奴隷制度がある州とない州(自由州)に別れていた時代であり、心あるアメリカ人は奴隷制撤廃で裁判や政治的な行動が既に起きていた時代でもある。
このパートで描こうとしている主題は奴隷制度。搾取構造が一番明確なテーマであり、プランテーションでの農作業、鞭打ち刑から食卓に控える執事とメイドたちといった形で奴隷が当たり前の時代が描写される。
もう一つは詐欺師が犠牲者を選びどのように陥れて行くかというところ。これは普遍的なテーマと言える。
本作物語の底流に流れる二つのテーマが展開されており、如何に時代が変わっても行われている事に違いがないかわかる構造になっている。

原作から大きく変わったのは最後に奴隷貿易に関わる妻の父との会話。要素自体は原作にあるのですが、こういうシーンはなし。ただ映画にこのシーンを入れた事で奴隷制に対抗しようとする人の考えが述べられてわかりやすくなったのは確か。


2. ゼデルゲムからの手紙
1930年代の英国。老作曲家の写譜係として採用された若き音楽家の物語。

功を成した作曲家が若き音楽家の成果を取り上げて自分のものにしようとするという強者の搾取を描く。
ここで演奏されるのが「クラウドアトラス六重奏曲」で作曲はトム・ティクヴァ監督自身。パンフレットによると様々な時代の場面に応じた変奏曲として演奏出来るようにしたとの事で穏やかな音楽になっていた。本作が負けざる者たちへのアゲインスト・ソングという構造を持っている事を考えると華々しい楽曲より穏やかさの内に秘める力という方が合っている訳でしっくりくる。

過去への参照:アダム・ユーイングの太平洋航海誌はどうやら出版されていたらしく、フロビシャーが作中で読み進めている。


3. 半減期−ルイーザ・レイ最初の事件
1960年代のアメリカ。原子力発電所建設が進められていた頃。その原子炉に実は欠陥があったとしたら−という物語。
原作だと原子力発電会社が欠陥を隠蔽しようとする話になる訳ですが、本作はもう少しひねった設定になっていて意味が反転していたのは驚愕。ただその方が「悪」の強度が強まる訳でなるほどねと。。。
ルイーザの部屋、451号室だったような記憶があるのですが気のせいか?


過去への参照:フロビシャーの恋人だったシックススミスがフロビシャーから受け取っていた手紙を大事に持っていた。その手紙をルイーザは読み返した。
その手紙からフロビシャーのレコードを探してクラウド・アトラス六重奏が出てくる事になる。



4. ティモシー・キャベンディッシュのおぞましき試練
2012年英国。欲を出して手痛い目にあった編集者が姿を隠そうとしたら、実は自ら牢獄に飛び込む行為だった。

基本的な構図は原作と同じですが、大きな違いがあります。
原作の上巻は凄まじい閉塞感に被われていてとてもコメディに見えない展開。てっきり「キャッチ22」や「プリズナーNo.6」展開かと思ったら、下巻ではそれが一気にコメディに変わるという少し変な仕上がり。
映画は下巻のテイストで統一されていて飲み込みやすくなったところです。

このエピソードは本作中一番コミカルです。またある目的に対して一致団結して達成させるという一番開放感がある物語。でも、これも親や祖父母たちを老人ホームに入れて厄介払いする子供たちと預かる(=閉じ込める)事で利益を得る老人ホーム事業者たちによる自由の制限に直結していて本作テーマそのものだとわかる。

しかしキャベンディッシュさん、あそこであの作品を言及しますかねえ。(苦笑)


過去への参照:持ち込まれた小説「半減期−ルイーザ・レイ最初の事件」の原稿をキャベンディッシュは暇つぶしに読んでいた。



5. ソンミ〜451のオリゾン
2144年ネオソウル。使役用にデザインされたクローン人間が「年季奉公」していた。その中のソンミ451におきたある出来事がきっかけとなっていく。

映画が原作と少し違う方向を指し示し始める分岐点。
原作が陰謀史観に囚われていて、その後の展開に若干疑問になるところがあったのですが、映画ではその点が整理されて何に対する抵抗なのか明確に。
あと未来に対してある設定が追加されています。
ソンミが未来において知られる救世主となるには何が起きていたかという逆算から修正が入ったところだと思うのですが的確な修正でシンプルにまとまった印象。本作の原作からの改変については大変慎重に検討されたようで粗がなく、原作という原石を映像化に最適化した上で物語もブラッシュアップされているのが最大の特徴でしょう。
原作完全コピーをうたう映画製作者がたまにいらっしゃいますがそれが最適と言い切れるかというとそれはあり得ず。必要な修正を加えて作品として整える事は必要な訳で「完コピ」は作品自体の質を保証する気がない映画制作者たちの言い訳に過ぎない。

ソンミの物語は活劇として一番整っている部分です。原作もこの章が一番面白かったとの感想がよくアップされていますし、実際その通りだと思う。
ただこの物語自体はありふれたSFに見える作りになっているのも事実。さらに「ソイレント・グリーン」としかいいようがない展開まで入る。そういった物語をオーバーラップする形で繰り返しの物語としての構造が組まれていて全体像が浮かび上がる。過去と未来の最後のつながりであり、転換点。

映画で描かれる戦い。衛星放送施設を急襲、占拠した反政府組織部隊は救世主を産み出す為の生け贄であり、その事を承知で付き従っている。その事が次の物語へとつながって行く。最後生き残ったソンミの運命はせつない。

小説での本章タイトルの「オリゾン」Orison 、辞書で引くと大変印象的な意味でした。小説でのソンミの最後の台詞も見たかったとは思いますが、映画は映画。小説は小説だと思うのでこれでいいかなと。


過去への参照:遺失物保管室で見つけた携帯端末で見た映画は「キャベンデュッシュのおぞましき試練」。キャベンディッシュは大変厚かましい映画化願望を持っていた訳ですが、映画中なのにちゃんと別の俳優が当てられていて、気付いた瞬間に心の中で爆笑。
映画でのソンミは最後まで見る事が出来たのだろうか。


6. スルーシャの渡しとそん後すべて
2321年未来のハワイ。ソンミを神と崇める村に高度なテクノロジーを維持している人たちが船で交易している世界。ザックリーは兄と甥をコナ族に襲われて失っていた。
ソンミの物語から大きく原作を離れ始めた本作は原作の意図を守りつつ新しい展開へ。

マウナケア山と思しき山が魔の山、神域として登場。山頂の施設、天文台かと思ったら、ソンミの物語の段階で仕掛けられた部分とリンクする形で更に未来への展望へ。原作とは異なる終わりへと話が進んで行く。

原作のいう「先見人」の核融合高速船の雰囲気はスタートレックのエンタープライズそっくり。メロニムが与えられている原則の一つはオマージュかなと。
その「先見人」にしても昔のテクノロジーを動かす事が出来るだけで作り出せる訳ではなく、悪化する地球の環境に対して打つ手を持たない。
その中でソンミの物語で持ち込まれた未来のある設定が生きてくる。

過去への参照:ソンミの録画ビデオが出てくるシーンが登場。そこでザッカリーはソンミの話を目の当たりにする。ソンミの救世主たる理由が明確になるシーンでもある。



7.終章/6つの中編小説が楽器のように響き合う
冒頭でも述べましたが、本作は6つの物語のストーリーが短いカットで交互に描かれて話が進んで行きます。そして物語の起承転結が見事に重なっており最後のフィナーレでは原作の静けさに満ちた終わり方が、本作では見事な大合奏となります。この脚本の繋ぎ方、映像編集技術は異次元の水準にあると言って良いでしょう。

原作の最後のオリゾンにまつわるエピローグも良いのですが、映画での最初の老いたザックリーのモノローグに戻り、話を終えた時に見上げた夜空は映画的な感動を呼び起こす終わり方になっていた。映画としてのカタルシスを満たしていると思うのですが、どうでしょうか。

本作が壮大なる実験作であるのは、6つの物語を並行して動かす脚本、映像編集とメーキャップによる同一俳優の複数キャスティングという過去に例が少ないチャレンジをやって見せた事で他に比肩出来る作品がないという事が大きい。
ちょっと危惧する点はありますが(ソンミの物語での男性俳優陣のメーキャップはちょっと行き過ぎかなと思う為)、今後評価が高まるタイプの作品ではないだろうか。
公開第2週で大幅に上映頻度が低下していますが、今のうちに大スクリーンで見ておくべき作品だと信じます。