2018年4月18日水曜日

映画「この世界の片隅に」水が表す意味

「この世界の片隅に」での水の表現

冒頭では砂利船に乗せてもらい広島市街中心地、川の中洲にある中島本町へと幼少期のすずさんが向かっている。
10歳の時には引き潮で姿を現した砂浜を渡って東対岸の草津の祖母の家へと渡る。
長閑な光景であり水溜りは空を映しカブトエビなどが姿を見せている。
呉への嫁入り前にも橋や川が出て来る。
そんな中でも筆者にとって引っかかりがあるのは北条家の側溝であり共用井戸の側の水路だったりする。
何故引っかかるのかと言えば、これらは思った以上に水が流れているからだ。

この作品は瀬戸内海を描く時穏やかな姿が多い。
すずさんと哲の会話のシーンで海は白浪を立てるが、哲の一言でそれはうさぎに変わった。
そして戦時下の海は大破着底した軍艦から漏出した燃油の油膜が海面を覆う。
これらの海の動きは大きくなく穏やかに描かれている。

共用井戸の脇を走る排水路か用水路では水が流れている。
昭和20年7月。艦載機の空襲を受ける中で周作はすずさんをこの溝へ押し倒した。
水に浸かりながら話す2人。その間も水は容赦なく流れている。

北條家の裏手には側溝がある。ここも水が流れている。
昭和20年8月15日玉音放送の後。径子はここで亡くした晴美ちゃんを思い号泣した。その時、側溝には水が流れていた。

長ノ木界隈で水が出て来る時、それは時の流れを示している。水に淀みがあれば時の経過はわからない。
側溝や用水路の水は流れ続けている。時は容赦なく進む。北條家の中の出来事は目覚まし時計が見つめている。
外での出来事はしばしば水の流れが時が止まらない事を表しているようにも思える。

北條家の側溝に関するエトセトラ

筆者は北條家の水事情が気になって仕方なかった。というのも阪神淡路大震災の時、実家マンションが全壊認定を受けるような損傷を受けたため山の裾野の集合住宅に避難した。そして山の中に水源がある事を知っていたので、4階の家まで汲んで風呂に溜めてトイレを流すのに使った為だった(飲料水は自衛隊など給水車が来たのでそちらをポリタンクに入れて使用した)。水は当たり前だけど生活用水確保するだけでも重いのは身にしみている。

北條家は風呂を持っていたし、畑もあったので水需要は大きい。炊事の水は水場に据え付けられた水瓶に井戸水を入れている。畑には洗濯で使った水を持って行って撒いているらしい描写もあった。では他はどうなのか?(原作だと風呂に井戸水を入れていて哲が手伝っている)。

結論から言えば井戸水利用だという設定で考えられているらしい。側溝はロケハンした際にあるから入れたもので、水量もないから使っていないとの設定だった。8月15日に水量が多いのは多分その前の日以前に雨が降ったりして山から出水があったのであろう。正直、この点はあまり考えられず演出優先されたという印象にはなった。この作品では珍しい脇の甘い表現だとは思う。

北條家が灰ヶ峰の裾野のどの辺りにあるのか筆者は承知していない。現実には存在していないフィクションだと思っている方がいい場所だと思っている。なので山からの水が常に湧き出ているものなのかとかは分からない。井戸があるぐらいなので水脈はあるだろう。一方で灰ヶ峰最高峰まで海からの距離はおそらく数キロであり急傾斜地にあるので早々都合よく湧き水があったりするのだろうかという印象は強い。おそらく現実には雨が降った日や風呂場の水を流した時しか流れない排水路だったんじゃないかとは思うようになった。

なお呉市は二河川を水源とした水道を有しているが、居住地域で水道未整備の地区があった。これは呉は本来人が少なかった地域で海軍工廠ができた事で急激に人が増えており水道敷設より前に住宅地が切り開かれた事が要因となっている。

参考資料)