2018年11月14日水曜日

映画「若おかみは小学生」(Ver.2)

  原作は2003年から10年間で本編20冊、さらに短編集4巻が発売された累計300万部のベストセラー児童向け小説、令丈ヒロ子「若おかみは小学生!」を映画化。監督は自転車レースを描いた「茄子」シリーズを手がけたアニメーター高坂希太郎氏。脚本に吉田玲子氏、音楽に鈴木慶一氏と実績豊富な陣容で作られている。

作品の核心部に触れた記述があります。




  きっかけは制作幹事のDLEが高坂希太郎氏にテレビアニメ化のためのキャラクターデザインを発注した事。そうしているうちに劇場版の監督に高坂氏が決まってプロット、イメージボードが作られた。
  あくまで原作ありき。映画公開前に先行放映されたテレビアニメ版は劇場版の美術設定など流用出来るのではとのアイデアだったそうですが、確か秋好旅館のモデルが劇場版とテレビ版で違うといった話や監督、キャラクターデザインなども異なっており、どちらもそれぞれの全力投球はあったように見える(なお音響監督と主な声の俳優は同一人物が起用されて制作されている)。
  あくまで「若おかみは小学生!」の映像化が発端。昨今の監督の作家性の強い企画ではなかった事が分かる。ただこういった事は映画公開から2〜3週間経とうかという頃から始まった舞台挨拶やWeb媒体、雑誌のインタビューなどで明らかになった事。制作中も「何故、監督に高坂希太郎氏、音楽で鈴木慶一氏で女子児童向けの児童文庫小説の映画化をするのか?」という不思議さは噂にはなっていたらしい。



1. 主人公が喪失を受け止めて再び歩き出すまでの物語

  作品は94分とコンパクトながらプロローグからエピローグまで主人公の1年間を通して冒頭に起きた喪失を受け止めて再び前を向いて歩きだすまでをリズムよく見せている。

  物語は花の湯温泉の神社の春のお祭りの神楽に始まって、1年後に峰子の琴も加わった真月とおっこの神楽奉納の最中のウリ坊と美陽ちゃん二人の旅立ちで終える。プロローグの神楽は運命の予兆となっていて、最後のお客様の章の中で下駄の鼻緒が切れるという転機を告げる予兆と対になっているように思える。

異界の人々

  本作には異界の人々が登場する。幽霊のウリ坊(祖母峰子の幼馴染)、美陽ちゃん(真月の姉 で7歳で亡くなった。存命なら19歳ぐらいらしい)、魔物の鈴鬼くん、さらに映画オリジナルの展開として亡くなったはずだけどおっこがそうは思えずにいるある二人。
  これらの存在は主人公のおっこには見えるレイヤー(観客にも見える)、そして観客だけにしか見えないレイヤーという2種類のレイヤーがあって異界の人々がどちらに属するかは時により変化する。つまり劇中で現実とされる世界ではおっこ以外の人達はこれらの人達を何かしら感じる事はあっても見える事はない。
  こういう仕掛けで演出する事で劇中現実世界ではおっこが独り言を話しているようにしつつ、ウリ坊や美陽ちゃんがまるで会話してるかのように重ねる事で違和感なく観客に複数の世界を見せている(祖母の峰子が一番おっこの独り言を聞いていると思うのですが、そういう孫娘の様子をどう思っていたのかは気になる所ではある)。

春の屋のお客様は主人公を写す鏡・そして両親

  パンフレットの監督インタビューを読むと春の屋を訪れる3組のお客様は主人公関織子ことおっこの心象風景を映し出す鏡になっている事が分かる。あかねは今の、グローリー・水領さんは未来の、木瀬さんのお子さんは過去のおっこそのもの。

  母を失ったあかねは意地を張っていて泣けない。そしてまだ母の喪失を受け止めきれてない。そんな彼の我儘な希望、そう言ってしまう心境が痛いほど分かるが言語化出来ないおっこは夜の花の湯温泉街に駆け出して彼の希望を叶えようとして最終的にある料理をしてみせる。

  グローリー・水領さんは都内で開業している売れっ子の占い師。彼女は占いでお客様を応援するという意識がある。そしてそれは旅館の若おかみの接客にも通じる。そんな彼女だからおっこがどこか沈みがちな彼女を応援しようとしている事に気付いて気晴らしショッピングに誘い、自動車で向かった事でおっこが他の人に語らない2つの秘密の1つを知る事になる。

  木瀬翔太くんは作家のあかね父が書いた雑誌記事のおっこの写真をいたくお気に入りの5歳ぐらいの子ども。彼は両親を失う前のおっこでもある。彼はおっこがしていたような悪ガキのような悩みのない笑い方をする。それはおっこがほとんど失ったものでもある。
翔太くんのお父さんはある事から低カロリー・低塩分という食事制限があり、おっこはその解決でプライドを捨てて直前にも喧嘩していた勉強熱心な真月を頼る。そして満足いく夕食をしていただけた時に出た話から思わぬ遭遇だった事を知る。

  おっこは両親の幻を見ている。それは幽霊や魔物の三人ですら見ていない彼女の中にしか存在しないものになっている。おっこは冒頭の事故に至る運命の中で「早く帰ろうよ」と言っていて運命に加担していて事故を避ける事が出来たのではないかという思いを抱えている。
  だから両親が生きているように感じている時、両親が生きている時に戻りたいと願っているが、それは決して叶わぬ願いだとも知っている。
  おっこ達を事故に巻き込んだ運転手もまた他の事故に巻き込まれての連鎖の最後のひと押しとなっており不幸な巡り合わせ、偶然であり悪意のある事件だった訳ではない事が示される。
  おっこは全てを知ってその事を受け止めるしかないと悟る。だから彼女の頭の中にいる両親はおっこの結論として「立派な若おかみになっておくれ」という願いを伝える。これはおっこのこの時点の思いであって両親の意思ではない。両親なら立派な大人、幸せになる事を追求しておくれと願っているはず。でも本人の思考としての両親なのでそう願う事はない。
  この物語はさらに鈴鬼くんから幽霊二人が天国に昇る決意をした事が告げられており、おっこにさらに別れが待ち受けている事をこれでもかと重ねてくる。

「若おかみ」である事がオッコの心の傷を保護した

  おっこにとって若おかみを目指した事は余計な事を考えずに両親を失った事をどう受け止めるのか考えるモラトリアム的な要素はあったと思う。
「若おかみ」になるという努力は彼女の心の傷を覆う包帯になった。そして木瀬さんに「花の湯温泉のお湯は誰も拒まない」、そして関織子ではなく「春の屋の若おかみ」だと言う事で事故の出来事について和解できるのだという事を示した。

  翔太くんが父親とおっこの関係が露わになった時に寝落ちしていて聞いてない事を脚本か演出で調整はされていると思う。あの子がいなかったらこういう終わり方は選択出来なかっただろう。翔太くんという存在は木瀬さん夫婦にもおっこにも救いなのだ。

  なお祖母の峰子にとって、おっこが若おかみを目指した事は内心複雑だったはず。アニメージュの高坂監督インタビューでもおっこが唐突に言い出した時、うれしさと大変さを思っての複雑な心情があった事は憂いのある表情を一瞬入れて表現されている。ただ、おっこが若おかみを目指して和装所作を学んだり手伝いを始めた事で峰子が一人娘と義理の息子である娘の夫を失った事の衝撃をやはり守ったのだと思える。

「この瞬間がずっと続けばいいのに」未来への一歩

  幽霊二人の旅立ちに到る道程は鈴鬼くんの語る話に差異があって変化があった事が分かる。最初の異変はおっこが幽霊2人に気付かなかった時に始まる。そしておっこが二人を認識できなくなっている現象は水領さんのドライブの時には既に起き始めていて、鈴鬼くんがウリ坊、美陽ちゃんにその事を告げている。
  おっこが真月の助けを得て春の屋に戻る車中、鈴鬼くんが姿を見せて下駄の鼻緒を直してやりながらウリ坊と美陽ちゃんが天に昇る日が決まったと告げている。原作だとおっこが2人を見えなくなるのならと天に昇って生まれ変わろうと決心しての選択になっている。後述する映画の尺の長さの都合もあってかギリギリ推測できる所まで削りこまれた描写になっている。

  おっこは両親の死を受け入れる直前、両親のベッドに潜り込んだ記憶の続きを思い出して「戻りたい」(だったか?)とつぶやいた。
  そして幽霊の二人が旅立つ直前、神楽を舞いながら一緒に踊る二人を見て「この瞬間がずっと続けばいいのに」と思っている。過去に囚われずに別れは新たな出会いにつながる。そう信じられるようになった事がおっこの最大の変化だったのだと思う。


(追補)おっこは何故泣かないのか

  おっこが事故後一人で春の屋にやってくる。子ども一人はリアルではないという感想があるが祖母が朝、先に帰っただけかも知れず経緯は不明。そもそも原作でもこれは同様で、おっこはもうこの時点で子どもでいる事を止めている。事故によって子どもでいる事を奪われたと言い換えても良い。そういう姿が描かれている。
  その途中の電車のシーン。隣のボックス席にいる親子の会話が聞えてくる。その中でおっこは外を見ていて視線が動かない。電車がトンネルに入っても全く動かず窓の反射で隣の親子連れの様子が見えているが全く見ていない。春の屋に着いてエツ子さんや康さんに挨拶する時も二人にはおっこの両親が亡くなった事への涙があったものの、おっこはそうういう反応をされても困るという表情をしている。

  おっこはあかねとの喧嘩の中で「周りの人に心配されて頑張らなきゃって思うから」というような事を言っている。その頑張りがおっこを子どもでいる事を止めさせている。
  こういう子どもの類型は難病にかかったお子さんでもみられる。危機への対処の反応の一つであり涙を見せずにいる事はおかしい訳ではない。ただそういう感情に蓋をしているだけなので、グローリーさんとのドライブや木瀬さんの秘密を知った時にPTSDや悲しみからの涙という形で顕在化している。
  おっこが何故あかねが食べたいと言った事を実現しようと走り回ったのか。単純に顧客の願いだからって話しではないんですよね。それはおっこが「何かキューッとして」というような台詞で語られている。彼女はまだこの時点であかねの心境が自分の心の奥底にある感情だって気付いてない。でも何か感じるものがあったから夜道を駆けた。おっこの努力はあかねの感情を表に出した。それはおっこの感情でもあるんですが、まだそれを表に出せるような段階じゃなかったという事なのだと思います。



2.プロット・脚本・絵コンテ

  本作のプロットやイメージボードは高坂監督が作り込まれている。プロットからそのまま絵コンテに進むか検討された際に前作「茄子」シリーズで絵コンテ作業で時間を要した事もあり、プロデューサーの提案で吉田玲子氏に脚本発注する事になったという。

  吉田玲子氏の脚本では1ページあたりの分数予想から当初150分程度必要と見込まれたが、制作側からは90分厳守と言われていた事もありA〜D全パートを徹底的に削って絵コンテ化された。作品の濃密かつハイテンポな作りは尺の制約が良い意味で機能したように見える。ただそれだけでは物語の進み方のリズムが取れるわけではなく演出で意図して作り込まれた成果でもある。

  おっこが「ピンふり」と本人に言うのは原作にないもので吉田氏のアイデアによる。
  原作のえりかのための露天風呂ロウソク演出シーンは脚本にはあったものの尺の都合で落としてもらったとは吉田氏インタビューでも言及がされている(テレビアニメ版にはこのえりか露天風呂ロウソク演出エピソードが2話に渡って描かれており減塩・低カロリー食のエピソードなどが含まれていた)。
  映画版は四季を3組のお客様を通じて描いているが、えりかエピソードがあれば脚本段階では4組のお客様で四季に対応していた可能性がありそう。



3.計算違いの中で生み出された奇跡

  本作の好き嫌いに関する感想ではキャラクターデザインから嫌う人が多い。これは本作企画が原作ありきであり主たるターゲットが読者および読者だったハイティーン、20代までを視野に入れた作りをしている為で本来ならターゲットにしてない成人男性などの受容は元来計算外、想定外の事態と言っていい。

  一度お子様たちがいっぱいのスクリーンでも見ましたが鈴鬼くんサムアップとかドッカン、ドッカン受けていて決してお子様に届いてないわけではない。ただお子様に強い定番シリーズアニメーション作品に比べると作品についてリーチしきれなかったようには思える。
  20代の大人ターゲットについては彼らのお子さんが読者層になるという循環サイクルが起きていれば有効だったと思うのですが2003年当時の読者層はまだそういう年代ではない。累計300万部とは言え15年間の実績であり種読者層が小学生女子想定であろう作品なので読者分布が広く薄い可能性がある。10年後なら読者のお子さん狙いが出来ただろうし、10年前なら刊行中の勢いを利用できたであろう。タイミングの微妙なズレは当初想定した観客層へのリーチを難しくした面はありそう。

  イメージボードを見ていても強烈に感じますが、開発初期段階でああいう素晴らしい絵を見せられて実際に反射を用いた演出など原作イラストイメージに沿ったキャラクターにしっかり演技をつける工夫を施された大人の本気が全開の贅沢なアニメーションを見せられるとそりゃあ海外映画祭に出品したくなる人も出るだろうし、大人を視野に入れた宣伝に傾倒してさらに上映館数も多く確保してしまうだろうと思う。
  ただそれが広く知られるのに2週間ほど時間がかかって初動の動きに結びつかなかったのであろう。ただ作品に力があった故にそこからある程度挽回出来たのは間違いない。やはり我々のような大人だけでなく当初から期待されていたお子さん達にも観て欲しい一本である。

参考資料:
・劇場版「若おかみは小学生!」パンフレット
ITmedia 「おっこが自分で気付き、成長していく過程が大事 「若おかみは小学生!」脚本・吉田玲子インタビュー」
・アニメージュVol.486号(2018年12月号)連載「この人に話を聞きたい」



用語集
オッコ:関織子(おりこ)。2006年生まれ。母咲子は春の屋の女将峰子の一人娘。父も花の湯温泉の出身か親類がいるようで咲子とは幼馴染みの関係らしいが父方の家族は出てこない。
関峰子:オッコの母方の祖母。昭和23年1948年生まれ。ウリ坊が幼馴染みの同級生だった。小学6年生の頃は大阪にいて引っ越している。
ウリ坊:立売誠(たてうりまこと)。大阪の地名「立売堀」(いたちぼり)からの命名か?
美陽:秋野美陽(あきのみよ)。7歳で亡くなった秋好旅館の長女で真月の姉で幽霊。生きていれば20歳ぐらい。秋好旅館にずっといたらしいがほとんどコミュニケーションが取れない中でウリ坊やオッコの存在を知った。
真月:秋野真月(あきのまつき)。あだ名はピンふり。オッコの同級生・天敵だった。秋好旅館の一人娘。経営を継ぐべく勉強、企画と余念がない。
鈴鬼:春の屋の納屋の鈴に封印されていた鬼の魔物。1000年続く瓦職人が祖父にくれたというが厄介なお客様集客機能があるらしい。
神田幸水(かんだこうすい)・あかね父子:飛び込みで泊まるつもりでやってきた親子。父親の幸水氏は作家で秋頃に週刊誌に紹介記事を載せた。息子のあかねはオッコが神楽を舞った時に見にやってきている。
グローリー・水領:東京に拠点を構える西洋・東洋両方に通じた占い師ではんば異能の人。ポルシェ・カブリオレをぶっ飛ばし異国情緒溢れる仕事着・メイクから普段のお化粧、そして素顔まで見せる唯一の人でもあったりする。名前の由来 GLORY(栄光)は分かるのですが、水領って語源は何なのか?(分水領は分水嶺(ぶんすいれい)の誤りなので違う)。
木瀬(きせ):冬の宿泊客ご一家。命名は関(せき)のアナグラムからか?

週刊WAVE:神田幸水が記事を寄稿している雑誌。春の屋の紹介記事が載ったのは34号だった。1月から毎週刊行されている場合9月中旬頃になる。

「ジンカンバンジージャンプ」歌=小林星蘭と劇中のカーナビAVシステムにも出ている(言うまでもなくオッコ役の人の名前で実際本人が歌っている)。タイトルの「ジンカンバンジー」は「人間万事塞翁が馬」をもじったものとの事。パンフレットに歌詞は載っていますが音源が未発売なのは惜しい。耳に残る見事なPopsチューンサウンドです。

「生我者父母、成我者朋友」神社の神楽舞の練習場の掛け軸に書かれた言葉。私を生んだのは父母だが、私をならしめるのは親友であるという禅の教え。
「二分心」神社の神楽舞の練習場にあった額装された書。これは一般的な辞典・辞書では0.6cm幅のランプの芯の事になってしまうので二人を指してつくられた造語でしょう。→内在する神的領域と現実について論じた本でこの単語を使っているとの話を拝読。Wikipediaに載っている。大元はジェインズ「神々の沈黙」の Bicameral Mind の訳語。国会図書館オンラインで検索すると2件ほど論文記事もあります。この本自体は評判にはなった記憶はあるんですが奇書扱いされていて学術的な評価は乏しいという印象はある。ただ神話的な要素を持つフィクション構築では参考にする余地はあるのかも知れない。
(追記)高坂監督が舞台挨拶の質問でこの言葉はおっこ、真月の二人を指している意味と二重の意味もあるというような事は話をされている。

「陶冶」(とうや):教室後ろに掲示されていた秋野真月による書道の字。
日本国語大辞典によると、(1)陶物(すえもの)をつくることと鋳物(いもの)をつくること。転じて、物をつくること、(2)もって生まれた性質や才能を、円満に育てあげること。育成すること。養成すること、とされる(教室習字掲示の言葉は美術監督らが選んで並べたという)。
Yuval Noah Harari「Homo Deus  a brief history of tomorrow」:真月が図書室で読んでいた未来予測本の英語版原著。日本でもベストセラーとなった「サピエンス全史」の著者が書いた本で「ホモ・デウス」 で邦訳あり(高坂監督がこっそり入れていて最終的に著者に許諾を取って原著の表紙を載せている)。


花の湯温泉:伊豆急行電鉄花の湯温泉駅。海に近い山間部の温泉地という設定。映画版の町の光景は兵庫県神戸市の有馬温泉をモデルにしたと言われている。
秋好旅館:花の湯温泉きっての大ホテルで春の鯉のぼり、冬の庭園ライトアップと客を飽きさせない演出にも余念がない。映画版のホテルのモデルは三重県桑名市長島温泉のホテル花水木(はなみずき)。テレビアニメ版とはモデルは異なる。

エクストラ
・オッコが春の屋に着いて部屋に入ってネジ式の鍵を外して窓を開けようとする前のカットは既に窓の鍵は外れている形で描かれていた。窓のネジ式鍵が締められている時の画の用意が出来てなかったのか珍しくミスカットが入る事になった。