2016年11月12日土曜日

映画「聲の形」『時』を凍結させられた主人公たち


ネタバレを含む感想と分析記事です。映画未見の方は見てからお読み下さい。

字幕版は硝子の音声で聞き取りにくい部分の確認や誰が話をしているのか(モブキャラの声も一部含む)、何の音が鳴っているのか字幕で確認が可能です。洋画字幕+α程度なので邪魔になることもないですから、字幕版設定があれば字幕版で見られることを強く推奨します。というか普段から邦画に字幕版枠をもっと設定して欲しいですね。
























1.人によりテーマ把握が異なってしまう作品
 一言で言えばディスコミュニケーションを描いた映画。コミュニケーションからは少し外れると思う。(原作はコミュニケーションだったと思う)
決して恋愛でもなく、感動ポルノでもない。

 原作は連載時から色々と深読み出来る設定や表現を入れた上でストーリー自体複数の解釈が可能な余地が作り込まれている。
 ただ著者側で考える筋は存在していて、その事を示す表現も盛り込まれている。隠し設定だけではアウトだと思いますが、隠し設定から生じる結果がディティールとして表に出ていて読者に対して概ねフェアな描き方をされていた。

 原作を巡る解釈については、映画公開とほぼ同時に公式ファンブックが公開されて原作者による一問一答とロング・インタビューが掲載されて「答え合わせ」が可能となった。
 本作は原作者解釈をベースに作り込まれているので、原作を読んでいて映画がおかしいと感じた場合は一度比較された方がいいと思います。この映画は原作を知っていて個人的な解釈に拘ってしまうと映画を正しく評価出来なくなる。
(私は1回目には大変不満があったのですが、公式ファンブックと原作再読で映画も原作の意図も納得しました)

 映画に苦言があるとすれば、硝子が通う学校での様子が触れられていない事。(公式ファンブックP.134 Q13に原作におけるこの件の解説が出てます)
原作でも将也がほとんど聞き出せていないし、映画だと将也はほとんど聞こうともしていない。佐原が硝子から彼女の周りの様子を聞き出していた時は将也が逃げ出してしまった為、どのような会話があったか謎になってしまったので読者/観客には想像しにくい。一方でこの事を理解していないと硝子の状況を完全には把握できないのではと思う。
(ただ、その理解のなさは将也の認識そのものなので、彼の目を通して考えるという観点では映画、原作とも正しい対応をしているので厄介なのですが)



2.将也と硝子 鏡像関係の二人の主人公
(1)将也
 将也は学校で大半の教師やクラスメイトに対してバツマークを顔に掛けて相手を見て話す事が出来ていない事が高校編冒頭から執拗に示される。飛行船のシーンでは誰も将也に対するネガティブな噂話をしていない、飛行船が来ているよと教えてくれているのに、それを後ろ指を指されていじめっ子だと言われていると思い込んでいるぐらい歪んでいる。

 将也の画面上の歪な立ち位置、不自然なぐらい雲が少ない空(山田監督が将也の心象表現を強めるため削らせたと特番インタビューで説明していた)、被写界深度の浅い画面周辺がもはやぼけはじめているような背景など特異な演出が仕掛けられている。
 飛行機の通過音、飛行機雲、バイクのエンジン音、電車の音?など肝心の乗物が映らないシーンが多数埋め込まれている。これは見て聞くという事がきちんと出来ていない事を示す暗示だろうか。いずれにせよ将也の心象風景を表すものだと思う。

(2)硝子
 硝子の心の奥底に隠された本音は妹の結弦ですら理解は出来ていなかったし、将也は自殺前に行こうと思って足を向けたことから彼女への贖罪とも取れる交友をスタートさせる訳ですが、彼が硝子にとって身近な人になっていく事=彼女の身近な人が不幸になる事への嫌悪を加速する役割を果たしてしまう事になる。将也がコミュニケーションを出来なくなっている人だった事もさらに悪い方へ影響している。
 その一方で将也が飛び降り自殺を救い身代わりになったかのように落ちた事の他に火曜日の夜に将也が硝子に助けてもらう必要がある、友達になって欲しいという申し出をする事で彼女の自殺による解決願望を取り去った。このシーンは福祉文化会館での再会の変奏、やり直しにもなっている。

 将也も母親への借金という重しがなくなればやはり自殺願望を抱えていた訳で、互いに生きる理由を見いだす、というか将也に関しては生きていく事に本来理由なんていらないのだという事に気付くまでの物語になっている。将也への最後の演出はこれらの重みを考えると引っかかりはあるのですが、映画制作陣が将也に与えたプレゼントとして納得出来る。

追記: 先日大垣コロナで舞台挨拶付上映を見た後、山田監督と将也役の入野自由さんのトークセッションを見てきましたが、山田監督の将也というキャラクターへの愛情がとても深い。空に何故雲がない快晴が多いのかという話を直で聞くと最後の「プレゼント」はああなるよなと思った。ここまで大事にされている、愛されている主人公を見たことがない。この山田監督なくしての映画化の成功はなかっただろうと思った。



3.将也と硝子の周りに集まってきた友人たち
(1)「時」の凍結 小学校6年生のままの高校3年生たち
 高校生編のメンバーの硝子に対する積極的な関わりは将也以外は乏しかった。そもそも小学校編で硝子が将也に対してコミュニケーションを図ろうとしてきたのは、将也がいじめとは言え積極的な関わりを持ったからのように見える。
 この時、植野や川井たちは早々から硝子を無視するようになり(植野は将也が硝子の手話の意味を考えている途中で、手話を覚える機会を設ける事を拒否する発言をしていて、別の可能性を潰している)、その植野に楯突く形になった佐原は耐えきれずに姿を見せなくなった。積極的いじめ>無視という図式を川井が抱いている節があるが本来は程度に差があるとは思わない。
 あの時に解決されるべき事を補聴器賠償問題が引き金で逃げた学校の無責任さが、彼らを小学校6年生の感情のまま凍結して高校3年生まで来てしまった事が将也、硝子を含めみんなを歪めたままにしている。

2016年10月26日追記:
小学校編時系列(2008年)
 4月10日(木) 硝子転入
 4月16日(水) 佐原手話を学ぶことを申し出る
 4月22日(火) 「黒板」事件。佐原は不登校で来なくなる
 日付不明 「補聴器」事件
 日付不明 将也、硝子の補聴器を奪おうとして怪我をさせる
 9月22日(月)or 26(金)? 将也、担任により硝子のいじめ単独犯とされる。
 10月8日(水) 将也、硝子の喧嘩
 日付不明 硝子転校



(2)補聴器と小学校の対応
 補聴器問題、どれぐらい学校が逃げたかというとおそらく校長が生徒たちに説明したような話しかつたわってない。示談が公園での手渡しというぐらいなので学校の態度はメチャクチャ。
 だから植野が硝子と再会した時にも平気で補聴器を取り上げるような事が出来てしまっている。本当に校長と教師が生徒達に対して何もケアしなかった事が見えてしまうシーンもなっていた。(ケアしていれば佐原さんの不登校も起きなかったのでは。映画だと硝子の対応を全て児童に押しつけて何もしなかったようにしか見えない)
 硝子が転校した時、学級崩壊としか思えない様相が示されていますが、将也だけの責任として何もかも蓋をした事で学校が責任逃避に走った事に児童達は気付いている訳で当然の結果だろうと思う。

(3)黒板の日付、スマホの日付
 本作終盤にいろいろと明らかになっているので、そこから逆算していくと硝子がどういう状況にあったのか見えてくる。
 あと黒板の日付はよく見ておくと、硝子があっという間に植野に切られた事や将也のいじめの始まりなどの想像以上の早さだった事が見えてきます。

2016年10月17日・26日追記:
 高校生編「月」エピソードの朝、結絃からのメール着信で将也がスマホのロックを解除して読むシーンがありますが、そこでロック画面が一瞬表示されておりこの日が5月12日(月)である事が分かる。

高校編時系列(2014年)
 4月9日(水) 将也、身の回りのものを整理し始める。
 4月15日(火) 将也、硝子と再会する。
 4月16日(水) お金焼却事件。永束が見切れ始める
 4月22日(火) 結絃登場。将也、永束を認識(席、真後ろなのに)
 4月日付不明 将也、永束と遊ぶようになる
 4月29日(火)
  永束、結絃が喧嘩
  将也、硝子と会う(将也との接触2回目)
 4月30日(水) 将也、自宅謹慎1週間の処分。結絃の家出事件
 5月1日(木)? 結絃、傘を返しに将也の家へ来る
 5月6日(火)? 将也、硝子と会う(3回目)
 5月8日(木) 将也、硝子とJRで探しに行く(4回目)
 5月9日(金)? 
  将也、永束とにゃんにゃんクラブへ行く
  硝子、水門市立病院で右耳診断を受ける
  結絃、マリアのところに遊びに来る。猫のポシェットを結絃に託す
 5月10日(土)? 将也と硝子(5回目)、植野の三人が遭遇

 5月12日(月) or 13日(火)? 『月』事件(6回目) ※a
 6月4日(水) 将也が川井に髪型を変えた事について話しかける
 6月10日(火)? 硝子、腹痛で橋に来ず。将也、メールで硝子を遊びに誘う。
 6月14日(土)か15日(日)? 遊園地へみんなで遊びに行く。(7回目)
 6月日付不明? 結絃が将也の部屋に来てビデオを見せる(部屋のカレンダー=6月)
 7月22日(火)「橋」事件(8回目)

 7月29日(火)? 西宮姉妹の祖母イトの葬儀
 7月 OR 8月A日 将也、硝子をメールで次の日に遊びに行こうと誘う
 8月A+1日 将也と硝子、養老天命反転地に遊びに行く(9回目)
 8月B日 将也と硝子、結絃、映画を見に行く(10回目)
 8月C日(火) 将也、手話サークルに来る(11回目)
 C+1日(水) 将也、西宮家でケーキ作りを手伝う(12回目)
 C+7日(火) 花火大会(13回目)
 C+8日(水)? 石田美也子、西宮家(八重子、硝子、結絃)、植野
 C+9日(木)? 硝子、植野、永束 
 C+10日(金)? 硝子、(制服)永束、川井、真柴、佐原
 C+11日(土)? 硝子、植野
 C+12日(日)? 硝子、植野
 C+13日(月)? 硝子、植野 (雨の日)
 C+14日(火)? 硝子と将也、それぞれ深夜に橋に向かう(14回目)

 9月日付不明 将也退院。植野、西宮母、ペテロ、結絃が冬服で登場。
 9月か10月日付不明 東地高校文化祭

「遊園地」から「橋」まで思った以上に時間経過して驚き。観客にあまり気付かせないように演出調整はされているように見えますが、硝子の方が「月」エピソードの事があって行けなくなっていたような感じがします。(無理ないか)

※カッコ付の回数は将也と硝子が作中で会った回数を示している。

※a 将也が結弦からのメールを読もうとスマフォのロックを解除する際に、ロック画面で日付確認が出来るが、何故か「5月12日(火)」となっている。他のカレンダーは全て2014年の曜日並びになっており、そちらに従うと13日(火)でないとおかしい。
この日、結絃が橋に向かわずに自宅で牛乳を飲んでいた事を考えると、また将也もあの後、永束とJR駅前ショッピングモールのファーストキッチン的な何かに行っている事を考えると12日(月)の誤りの可能性が高い。



4.原作からの改変点
(1)改変点
 映画は原作の複雑さを方程式を分解して再構築しつつ、その意図に対して忠実な映画化を実現。変更点は多数。同じようなシーンがあっても台詞が全く違うし他のシーンで他の登場人物から原作で言った登場人物にぶつけたりしている。シナリオ構築時に行われた見直し実に半端ない。(トークセッションの話だと原作著者の大今さんも参加されたとの事)

 一番の改変は硝子と植野の変化かも知れない。文化祭での二人の手話シーンは何度見てても良い。そのやりとりは硝子がそれまで見せなかった最大の表情を引き出している。

 この他にも細かな修正が加えられて4月15日から始まる高校生編を9月の文化祭で閉じている。原作だと文化祭以後、将也たちの高校卒業後の進路、将也に対して会話が増えてきた硝子などを見せた後、一気に成人式の日の全員の様子を描いて物語を終えている。本筋であったディスコミュニケーションを巡る物語は文化祭で一応終えているので、ここで話を終わらせたのは映画として良かった。

(2)高校3年生という設定で良かったのか?
 ただ進路がちらついていないとおかしい時期であるのも確かで、高校2年生に変更した方が良かったのでは?というのはちょっと頭を過ぎった……とはいえ小学校6年生と高校3年生だと曜日が一巡して一致するので変えたくはない所だと思います。
ある意味、これはやり直しの物語であり、曜日順の一致はそれを強調する要素だと思うから。



5.余談
・本作では結絃や将也が手話で硝子に話す時、台詞でも話をしていて、後でその手話だけが再び出てくることがあるのでよく見ておくことをお勧めします。いとを巡るエピソードでの使い方は本当に良かった。
・文化祭での植野とそれを直した硝子のやりとりは指文字です。指文字の動作と意味はこちらで確認出来ます。(ヒント:植野さん、1文字目を間違えているのですよね)

・全般的にソフトフォーカスで被写界深度が浅く撮影されています。これは将也の視点の反映じゃないかなと想像。
 永束くんが自転車を見つけて将也の家まで来てくれた際、将也視点はソフトフォーカスがいっそうひどくなり、永束くん視点ではパンフォーカスで美しい風景が広がっているので、そういう意図で使われている事があるのは確か。

・映画「聲の形」の公式サイトに本作音楽を担当された牛尾憲輔氏のインタビュー記事が掲載されていますが、山田監督とどのようなプロセスで音楽を作り込んでいったか(コンセプトをつめていく所から始まり、楽曲発注リストではなく絵コンテなどで合わせて作り込まれたとの事)詳しく語られています。
 何故J.S.バッハのインヴェンション第1番が一部組み込まれたのか、アルバム最後の"speed of youth"を含めた意味など映画のテーマ深部に関わる話もされていて大変興味深い内容です。アルバムを買って聞きながら読まれる事をお勧めします。



6.最後に
 本作は将也と硝子がディスコミュニケーションからコミュニケーションへの一歩を踏み出し、小学校6年生で凍結されていた状況が少し溶けて分かり合おうという方向へと歩み出したところで終えている。
 学校の教師は全ては将也が悪いという図式で片付けた。でもその結果としてクラスは壊れ、将也以外の関係者も皆何かしら心に小学校6年生の時起きた事を心の奥底で凍結して抱える結果を生み出している。
 将也にとって硝子との再会は人生最後の度胸試しだったはずが、何故か友達になって欲しいと告げて贖罪をしようと努力し始める。(将也自身の抱える課題からそれはしばしば空回りにもなった)

 硝子にとって将也は小学校6年生の時は喧嘩とは言えコミュニケーションを積極的に仕掛けた相手であり、毎週やってくる友達となった。とはいえ将也とコミュニケーションが成立していることは恐ろしいほど少なく彼女が「またね」という意味の手話を使ったのは何気に作中では川に落ちた1回しか存在しない。彼女が将也に「ちゅき」と告白したシーンすら完全に誤解されてしまっており、きちんとお互いの意思が通じたのは火曜日の夜以降になってしまっている。

 植野たちは日常の会話という手段でコミュニケーションが取れているので言い合えるが、将也にとっては硝子に対する加害者意識と他の友達から裏切られたという被害者意識が屈折している上にコミュニケーションを拒否して閉じこもっているため、小学校6年生での出来事を振り返る事になるとその当時の気持ちをそのままぶつけてしまうし、ぶつけられた方も屈折したものを抱えていて同じような反応をする。
 例えば川井はあの時の出来事にちょっと触れられただけでもハリネズミのような反応を示し将也を追い込んだが、これは彼女の中で小学校6年生の時の感情がそのまま凍結されていた事から起きる反応である事は分かる。

 映画での7月22日の橋の上に全員が揃った日、硝子が状況の分からないままで、将也は全員をなぎ倒すような批判を行う。(将也の台詞は原作から大きく改変されている)
冷静に考えれば将也が川井についてあそこまで洞察出来ているとは思えないのですが、正鵠を得た指摘であるのは確かでそれ故に花火大会の夜まで大半の友人達に将也と硝子に近づいた痕跡がない。
 そして硝子はここで蚊帳の外に置かれたまま、将也が友達を全員失ったとしか思えない光景を目の当たりにした事になる。

 植野は将也が島田らとの関係が壊れたままである事が心の棘になっていて元に戻りたいという願望がある事は遊園地の日に将也に伝えて実際に仕掛けてもいる。
 川井は真柴が将也に友達になりたいと言った為に将也に近付いている。
 佐原は硝子を置いて逃げた負い目を感じていたが将也のように自分から探そうとするほどではなかった事を自覚している。

 彼らが再び集まったのはそれぞれ異なる思惑があっての事で、佐原を除き硝子と必ずしも関係はしていない。ただ将也がその中心の接着剤的な役割を果たしていて、それが7月22日に溶けてしまった。そしてその時に硝子の事を思いやる友人が誰もいなかった事が奇妙な表情をした硝子の結論を固定化してしまう。その結論の意味を全員が知るのは結局事が起きてからだった。

 硝子が自分の声、筆談で友人達に会って話をする事、コミュニケーションをする事。これが一番大事な事だった。(何気にこの事は将也の花火の夜の誓った決意と同じ)
 自殺を阻止して代わりに落ちた将也の行動が硝子にこの事を気付かせた。だから火曜日の夜のシーン、そして文化祭での植野と硝子の指文字の光景に硝子と将也、そして彼らの未来の可能性を感じるのだと思う。