2015年3月4日水曜日

[小説] リー・カーペンター「11日間」現代の神話として描いた戦争小説

リー・カーペンターの小説「11日間」を読んだ。
SEAL隊員となった息子を主に母親の目で、ときに息子の目で物語る現代の神話の体裁を持った新しい戦争小説ではないだろうか。アメリカの一側面を描いていて大変興味深かった。


あらすじ
 2011年5月、SEAL士官となった一人息子が行方不明になったと知らされた主人公のサラが何も情報が得られない中、ひたすら待つ。その中で息子ジェイソンが生まれる前から現在までを彼から送られて来たメールや会話を思い出して回想していく。


志願する動機
2001年9月11日のテロ事件の報道を見たジェイソンは将来を嘱望されていたにも関わらず、進路を海軍兵学校に変え、任官後は更にBUD/S課程を受けてSEAL士官への道を目指していく。ジェイソンがそのような選択をする背景は別途描かれているのですが、あのような事態を見て自分に何か出来ないかと考えて軍に志願するというのは、その正義が確信出来る時にはある事だと思う。
例えば、ユージン・B・スレッジ「ペリリュー・沖縄戦記」(講談社文庫)では著者がマリオン軍人養成大学(Marion Military Institute)へ進学していたにも関わらず、戦争に間に合わないと退学して第1海兵師団の一兵士としてペリリュー島、沖縄の上陸戦に参加している。この本で描かれているのは積極的に志願して兵士になるという事と実際に戦いを経験していく中で知る現実は大きく異なる事が描かれている。スレッジは当時メモを残していて戦後、現在ならPTSDと言われる精神状態になった中で妻からその体験記録を原稿に書いたらどうかと言われて書いた事で脱する事が出来たという。(実際に出版されたのは1981年。なおこの作品はTVミニシリーズ The Pacific の原作の1つとされていて、ユージン・スレッジ役が主人公の一人として登場している)




「我ら、幸いなる少数」
本作では戦場のシーンはあまりない。BUD/SでのSEAL選抜課程、INDOCなどの訓練課程やSEAL隊員とその家族のインナーサークルをジェイソンの目を通して描いている。
BUD/Sでの選抜課程の厳しさはSEALを描く映画では必ずヘル・ウィーク(地獄週間)の描写が入る。このようなプロセスを経て同期の絆が生まれ、そしてチームに配属され訓練と実戦を経て「我ら、幸いなる少数」(※1)が形成されていく。

本書はこれらを描写するに際して、SEAL隊員や退役者に対して取材されているようでリアルな描写が多い。マーカス・ラトレル「アフガンたった一人の生還」でも描かれているオペレーション:レッド・ウィングでのエピソードに言及している。
SEAL隊員たちの絆を兵士たちと異なる立場にあるSEAL士官であるジェイソンの目を通して描写し、さらにそのジェイソンからのメールやジェイソンの戦友であるサムとの交流を通して母親のサラが知る事になる物語構造となっている。

現代の神話
サラとデイヴィッド、そしてジェイソンの関係は神話的だと思う。作中でも神話への引用が多くちりばめられ、デイヴィッド(=ダビデ)、サラ(ヘブライ語で「高貴な女性」の意。旧約聖書の登場人物)、ジェイソン(=イアソン。アルゴ神話より)と聖書や神話から名前がとられている事がわかる。
物語はジェイソンが行方不明になったと知らされて9日経過した2011年5月11日という<現在>でサラがデイヴィッドとの出会いと1984年に生まれたジェイソンの成長が回想される。そして2001年9月11日にジェイソンの転機が訪れて海軍兵学校、そしてBUD/Sとその後の厳しい訓練を経てSEAL士官となっていく。
アメリカの社会や軍を描きつつ、どこか象徴的な描写があることを感じ、そこに神話との対応があるのだろうと感じる。またそのように感じさせるのはサラの淡々とした物事の捉え方はあると思う。大変暴力を司る軍事組織が大きなテーマなのに静謐さが常にある。

Navy SEALsとは何なのか

本書やマーカス・ラトレル、クリス・カイルの自伝を読むとSEALsとは目指す一つの目標、通過点である事が分かる。軍へ志願する事、このような仲間を得る事で得られるものと任務をこなす中で失うものは別物なのだと思う。そしてこの任務を通して失うものは次第に大きくなり肥大化していく。

SEALsといっても軍隊であり官僚組織の一部である。本作でもジェイソンの才気と士官であった事から海軍で提督となってSEALを指揮するといった将来を期待する向きも出てくる。SEALになるというプロセス、そして任務での士官と下士官兵の関係は他の軍種ほどではなく垣根が低い。少人数で作戦展開する為、一人一人の役割が大きいことは背景にあるのだろうと思う。が、しかし、そのような「仲間」としての関係の上にも米軍内での勢力を保ち拡大するための官僚としての関係性がオーバーラップもしている。(米特殊作戦軍の司令官は二代続いてSEALs出身の海軍大将が就任している)
対テロ戦争という名の下に行われている軍事作戦の是非自体は本作では描かれていない。またサラがジェイソンの行方不明を告げられた際も、作戦中行方不明という事と必死で探しているという事以外は一切が秘密だと告げられている。作戦の計画立案、命令といった部分はおそらく意図的に外されている。そのような階層の話に触れているのは、ジェイソンの海軍内での将来について触れるところぐらいだろう。

Navy SEALsとは立場によって見方がまるで変わる組織であり一つの社会を築いている。そのコミュニティーの外側の人間がどのように仲間となっていくのか、またどのように離れていこうと考えるのか描いていて、内側の視点によらない物語構築出来たところが本作の読みどころではないだろうか。



「アメリカ万歳」な小説か?
本書や「アメリカン・スナイパー」原作を読まれたり映画を見られた方の反応として「アメリカ万歳」「志願しているんだから」という批判を見かける。

アメリカ合衆国という国は独立戦争、南北戦争という国内での戦いが国の成り立ちに大きく影響を与えている。基本的に政治とは参加していくものであり強要されるものではない。(遺憾ながら例外は多くある。例えば選挙投票時に写真入りIDの提示を義務化する法律を制定している州が増えているのは残念な例でしょう)
その中で軍はアメリカ合衆国象徴する組織の一つであり、その力の行使を否定している訳ではない。ただその公使自体はあくまで大統領を頂点とするシビリアンコントロールの元での事で、軍だけで自ら判断する事はない。(本書だと海軍法務部JAGが対テロ戦争において制約を課すのが健全という判断をしているのが興味深い)

大統領の元で下される判断、命令によって実施される作戦が他国に与える影響については議論の余地は大いにある。最前線で作戦に従事する兵士たちの行動の妥当性の可否はその個人の責任の範囲に限られると思う。

本作には声高々なアメリカの正義は歌われていない。SEALsたちはまずSEAL隊員の戦友愛に最大の価値があると考えているように思える。現実の元SEALs、例えばマーカス・ラトレルは自伝の中で「リベラル」に対する罵倒を赤裸々に書いているし、クリス・カイルも複雑怪奇なROE(交戦規則)に大して不満をぶちまけている。
それでも彼らは違反する事はよしとせず、むしろきちんと守ったと述べているし、マーカス・ラトレルの場合、その事で自ら生命の危機に陥っている。

映画にせよ、小説にせよ、自伝にせよ、翻訳を通じて読んだり見るものは、通常その作品が作られた国で出版、上映される事を想定して作られている。州の権限が強い分、合衆国というものを強く意識している面はあるし、そもそも他国の目を気にしているようにはあまり見えない。ことさら「アメリカ万歳」を描こうとする理由はない。まして対テロ戦争の渦が10年以上続いて未だに社会に負担を掛け続けている国なのに。
退役したSEAL隊員の自伝や映画、このような小説が出てくるのは、アメリカ合衆国の苦悩が背景にあっての事。もしその軍事力行使に対する懐疑をもたれている方がいらっしゃるようであれば、そのようなテーマを描いたノンフィクションは出ているので、是非手を取ってみて欲しい。(※2)



※1 シェイクスピアの史劇「ヘンリー五世」の「聖クリスピンの祭日の演説」より引用。ちなみに第二次世界大戦を描いたTVミニシリーズのタイトル「Bands of Brothers」もこの中の台詞の一つから取られている。

※2 スケイヒル「アメリカの卑劣な戦争 無人機と特殊作戦部隊の暗躍」柏書房(原題:Dirty Wars)は、特殊作戦部隊の中でも特に機密度が高いJSOC(統合特殊作戦コマンド)とCIAが特殊作戦部隊や無人機を使って行っているテロリスト幹部暗殺など対テロ作戦の実態を描いている。ブッシュ政権よりもオバマ政権になってからの方が過激であるといった事が示されている。