あらすじ:戦線で唯一生き残った戦車<フューリー>の米軍キャンプへの帰還、そして補充兵ノーマン二等兵の到着から戦車小隊と歩兵小隊の共同作戦による対戦車砲陣地の突破、ドイツの小さな町の攻略、そして味方非戦闘部隊を守る為に「十字路」に進出を命じられた戦車小隊がティーガー戦車1輛対シャーマン戦車4輛の死闘でなんとか仕留めたものの小隊の3輛が撃破されて<フューリー>のみとなる。そして十字路に到着した時に対戦車地雷でキャタピラを破壊されてしまった<フューリー>の所に進軍して来たSS歩兵大隊との戦闘までの24時間の出来事を描く。
1. 米軍キャンプからの出撃〜対戦車砲陣地攻撃〜ドイツの小さな町の掃討戦
- ノーマン二等兵が参加した最初の大規模な戦いは対戦車砲陣地の攻略を失敗した歩兵部隊救援。交戦地点まで戦車に歩兵を乗せて移動、降車後、戦車小隊4輛(途中、小隊長の戦車はパンツァファウストで撃破された)で横一列に展開して歩兵を戦車後方に従えて進撃して釘付けにされていた歩兵を収容しつつ前進して交戦。
- 対戦車砲陣地を抜くとそのまま町へと進撃して掃討戦を行い、攻撃して来たドイツ兵たちに対しては白燐弾(本来は煙幕用途。発火性があるので対人用に使った)を叩き込んで掃討。ここまでの戦いは実際によくあったパターンのように思えます。
- <フューリー>車長のコリアー軍曹のSSに対する憎悪は激しく、町で降伏したSS士官を歩兵に銃殺させている。
- 進撃中のシーンで、老婆が馬の死体(ドイツ軍において馬は重要な輸送手段の一つだった)から肉を切り取っているシーンがありますが、これはムーアハウス「戦時下のベルリン 空襲と窮乏の生活1939-45」(白水社)に当時の写真が出ている。食糧難から行われていたらしい。
2. ドイツの小さな町での休息
- 「解放」された町でのアメリカ兵部隊の振る舞いが描かれる。女を捜し、手持ちのタバコやチョコレートバーで釣る。
- <フューリー>の乗員は長い人間だとアフリカ戦線からコリアーに従って来ている。それだけに苦労して来た戦友意識が強いので、軍曹の「ノーマンの日」が気に食わない。大して苦労してないのにという意識が爆発。
- 味方偵察機がドイツ軍部隊を発見後消息を絶っているので、十字路に進出して阻止するように命じられたコリア−軍曹のシャーマン戦車小隊4輛。縦隊行軍中にティーガーIの奇襲攻撃を受けて1輛が撃破される。必死の戦闘で味方の戦車が壊滅する中、<フューリー>は生き残る。
- ティーガー正面装甲は大変強力でシャーマン戦車の主砲では打ち貫けなかった。後半のコリアーの作戦自体はシャーマン戦車でティーガーを撃破するのに必須の行動。但しその間にティーガーの88mm砲の餌食が出てしまう。このあたりの描写は当時の状況を反映していると思われる。
- ティーガーにしろ、コリアーの戦車小隊にしろ歩兵を連れてないのはどうなんでしょうね。戦車は歩兵の警戒がなければカモにされかねないのでちょっと疑問はあります。
4. 十字路での戦い
- ティーガーとの交戦で味方戦車3輛を失った<フューリー>は無線故障で味方との連絡も取れない中、単独で十字路へ進出。ここで地雷を踏んでしまい右側キャタピラ部を修理しない限り走行不能な状況に陥る。そこにSS歩兵大隊が出現。コリアーは残って戦う事を決断。部下達には撤退を許可したものの部下達全員、コリアーと共に戦う事を選ぶ。
5. まとめ:映画という制約の中である目的のために作られた戦争映画
本作は戦争に兵士として参加して復員された方が戦後、戦場で何があったか語らなかった事について、何故語らなかったのかを映画としてのリアリティーという制約の中で見せようとした映画だと思う。
「戦場の現実」は映画だと以外に制約が厳しい。例えば血。「戦火の馬」は映画化でR指定を嫌って血が出てこない為に戦場描写に違和感の残る結果となっている。
本作は、血は勿論、米独関係なく踏み込んだ描写を試みているし、血や砲弾か銃弾で吹き飛ばされた頭の一部が車内に落ちていたり、攻撃を受けて炎上した戦車から脱出するも既に体が炎に包まれている兵士といった強烈なシーンも出てくる。
でも本作で描こうとした「戦場の現実」は血や内臓といったスプラッター「人間の為しうる所行」を見せる事の方が先にあると思う。これはノーマン二等兵が泣き叫ぶ中で、米軍のコートを着ているドイツ兵捕虜を銃殺させて無理矢理戦場で役立つ一人前の兵士とし、その後は車載機銃で容赦なくドイツ兵やSS将兵を殺す「マシーン」となっていく。この事自体は戦友を守るためという正当性と人を嬉々として殺したという罪悪感と表裏一体になっている。
味方の戦車たちがティーガー戦車の88mm砲で一方的にやられる中で唯一生き残った<フューリー>というシーン。各車を名前で読んでいるだけに辛いシーンな訳ですが、この後の十字路では何の為に戦うのかという事を描く為に象徴的、神話的描写に転じている。
冒頭のようなヒトラーユーゲントの少年兵でも、崩壊寸前のドイツ国防軍でもなく、意気軒昂に歌いながら行軍してくるSS歩兵大隊がもしこの十字路を突破した場合、後方の味方の後方部隊が直接攻撃にさらされる。この中で動かないながらも主砲、搭載機銃という武器で戦う必要性を感じてそれを自らの義務として受け入れたのは、その前に<フューリー>の反撃までの間に失われた僚車たちや過去の戦場を想起したという事だったのではないか。あのシーンは戦場での運・不運を描いたものであり、次の番が自分に回って来たというのがコリアー軍曹の選択であり、その結果としてノーマンたち部下4人も同じ選択をする事になる。
その後の戦いの描写は、過去少数の者がより多くの者を生かす為に繰り広げられた戦いを描くというものに変わっている。
ベルリン陥落からヒトラーの自殺、ドイツ降伏という1945年5月直前という時期が選ばれている状況で、このような理不尽に直面するという設定自体、観客に対してタイピストとして司令部に配属されるはずだったノーマンという視点を通して第二次世界大戦後黙して語らなかった最前線の兵士たちの究極の状況を体験させる事を狙って作り込まれているものだと思う。別に1944年のノルマンディ上陸戦の最中でも良かったし、12月のバルジの戦いでも良かった。ただ、それだと冒頭にあったような少年兵との戦いが描けないので終戦直前のドイツ領内に設定されたのではないだろうか。