2014年8月22日金曜日

立誠シネマプロジェクト 大林宣彦監督トークショーを聞いて「この空の花」と「野のなななのか」を考える

立誠シネマプロジェクトで「この空の花 長岡花火物語」「野のなななのか」2本立てを上映されていました。私も2プロチケットで「野のなななのか」(3回目)、「この空の花」(1回目)を見ていたのですが、最終上映日の8月15日17時より大林監督が来られて立誠小学校3F自彊室で講演されるという事で行ってきました。

早めに16時過ぎに整理券等の対応がないか確認するため、受付に行ってみたら数名の方が待機中。時間になったら案内されるとの事だったので一旦離脱してコーヒーを飲みに。猛暑でお盆休みで人出も多い中、なんとか席を見つけ本を読んで16時40分には再度受付へ。
ここで大林監督と廊下ですれ違い。思ったより小柄な方でした。
ロビー(となっている教室)で時間待ちしていたら「今日は混むと思いますので譲り合いの精神で」とシネマプロジェクトの方から案内。
その時の受付のロビーコーナーさほど人がいなかったのですが、時間が近付くと増える、増える。そして最終上映回が満員だったらしいと気付き納得。
映画終了直後、一気にロビーの人が増えて少しして、会場の自彊室へ。
足を踏み入れるとそこは畳敷きの大きな和室。建物自体は油引き板張り・コンクリート造という昭和初期の古めかしい校舎(昭和3年竣工らしい)なのですが、まさかこんな部屋があったとは。驚愕。

受講者、70人ぐらいだったと思うのですが、余裕の収容力。後方に陣取って待っていると大林監督が登壇されました。

ここからは講演を聞いていて思った事を中心に書きます。大林監督のお話そのものは書きませんのであしからず。

「この空の花」「野のなななのか」=シネマ・ゲルニカという意味について、スペイン内戦での爆撃を批判した「ゲルニカ」の画が何故抽象的かについて触れて、人にはつらい記憶を忘れる事で耐える。リアルな描写ではなく抽象的にする事で時代を超えて残り見て継がれて行く事を目指したとの事。
また映画が一目で見て分かるものでなければならないのか。何回も見て分かるというものがあってもいいのではないかという事も意識されているという話もされた。
エンターテイメントは1回で分かる必要がある(でないとそもそも見てもらえないおそれがある)、そういう要請がある訳ですが、シネマ・ゲルニカは太平洋戦争や東京電力原発事故を通じて、目指すべき理想とは何か、現実を理由にして理想を切り崩す考えに対してどこで歯止めを掛けるのかという事を観客に問いかける事が重要なテーマになっていて、一度で分からなければならないものでもない。
だから「この空の花」は長岡空襲と原爆投下訓練で落されたパンプキン爆弾を中心にテロップの大量挿入とCGまで使って情報を大量に織り込んだ映画に仕上がっている。
「野のなななのか」はまた作りが変わってきていますが、こちらは2013年3月という「現在」の生者の世界層に死者の世界層がオーバーレイしていて、その両層にアクセス出来るのは清水信子一人だけ。そして生者が1988年〜99年の自分たちの過去を振り返るパート、そして死者が回想する1943年〜1945年という複数の層が出てくる事で個人的な視点で見つめるという構図が貫かれている。
「この空の花」では映画内に演劇を持ち込む事で観客に視点を与えていたが「野のなななのか」の場合、客観的な視点はまだ時代の中で何も担っているとは言えない学生のかさねの視点が担っていて、彼女が芦別を走り回り語る事で芦別の歴史が観客に伝えられる。このように考えると「野のなななのか」のかさねの役割は極めて重要でした。(山崎紘菜さん、はまり役でした)
講演では大林監督が「見聞録」「エッセイムービー」として作ったとの話もされていましたが、「この空の花」での演劇、「野のなななのか」での複数の世界を重ねるという語り方を取り入れる事で、情報が単なる情報になる事なく物語の一部として示す事に成功している。

ふるさと映画の話題も出てましたが、私が考えれば分かる事で指摘はその通りと思ったのが予算規模。長岡市は30万人近いのに対して芦別市は1万6000人切っている。長岡市の5%程度で映画予算確保する為に芦別市の人々が奮闘。奮闘した理由は、映画なら後の人たちに残す事が出来るからだという。この映画が何か芦別市の将来を変えるきっかけにつながればいいなと思う。私はこの映画きっかけで芦別市には一度足を運んでますが、今一度カナディアン・ワールド公園(テナントは土日営業が多いので今度はそこを狙う)や新庄の丘を巡ってみたい。