冒頭30分まで見ました。
この後、その詳細と本作への批判しかありませんのでご注意下さい。
私は本作冒頭30分で席を後にした。理由としてはこれだけいろいろな人がアプローチしてきたテーマに対して、論理的な追求が為されていないと感じた為である。その事について論じる。いらだちをもたらした要因は主に2点ある。
(1)主人公視線を徹しきれない脚本と演出
映画で奇術師を扱う場合、その視点をどこに置くのかは重要。本作の場合、主人公の視点で話が進むので、当然その視点は主人公のものとなる。主人公を演ずる大泉洋は事前に練習してノースタントで奇術を演じているとの事。ただその方法等を演じてみせる事はない。ただ奇術師の手技を身につけているという点だけが強調される演出になっている。
彼が現代で成功しなかったのは笑いを取れないからというのは冒頭で執拗に描かれる。奇術の手技と同じぐらいその点を強調している。これはタイムスリップ後も同様。
後者はその後のストーリーラインに関わるものであって当然必要なのですが、問題は前者の手技。彼のテクニックを彼自身がどう思っているのか、これぐらい出来て当たり前ならなぜ売れないのか、トークが出来ないからだけで押すには主観だけではなく客観性が必要。その意味で彼が行うコインやスプーン曲げ、トランプの手技が巧くても単に巧いだけであって、超能力者という設定であっても問題はなかったのではと感じた。
なぜ冒頭のカレーを食べるシーン(あのなんとも居たたまれない空気は見事でした)で、スプーンを曲げるところでトリックをばらしていれば良かったのにと思う。現代では当たり前のテクニックなんですよという事を示す展開が出来ておらず大変残念でした。
(2)昭和48年のリアリティー
ユリ・ゲラーの初来日は昭和48年。当初は眉唾だったかも知れないにせよ本物の「超能力者」としての来日だった。奇術師としての来日ではありません。
またスプーン曲げというオカルトブーム自体はその1年前からからとはWikipedia スプーン曲げの項で書かれているところです。
インドの奇術師ペペさんはそれを奇術としてやってみせた。特に語っていた訳ではないが、演芸場で演ずるという事を考えれば誤解の余地はないと思う。
それでいて、晴夫は大声で「ユリ・ゲラーが」と彼を奇術師的な呼び方をする。つじつまあってないんですね、ここら辺が。
なお上田市で撮られたという昭和48年の東京、最初のカットは賑やかな商店街からバス停で学生たちがどんどん降りてきて、というカットがあるのですが夕方頃だとして学生はともかく通りの人たちはどのような用事で出てきているのか考えてあの密度演出したのか疑問。モブシーンともかく人がいたら良いという演出はもうやめたらどうか。
昔、人口が増えていた時代表現で単に密度を上げてよくわからない活気を見せられても、生きているように見えません。上述してきた問題に比べたら小さな問題ではあるんですが、これもバジェットと関わらず対処出来た事でしょう。
高く評価される方が多いのですが、こういう作品があまり作られなくなって再発見でもされているのかと感じる。
このあたり共同脚本で入られた本職の作家の方がフォローすべきところではないのだろうか。手あかがついたからといってフレッシュな演出、物語を作る事が出来ないなんて事はないはず。ただ、これぐらいでいいやという判断をしてしまったらそこでゲームオーバー。私は本作だと冒頭30分で耐えられなかった。残念です。