2013年9月1日日曜日

[映画] マン・オブ・スティール

2013年8月31日(土)昼の回で見てきました。(字幕版)
ネタバレあります。

































ネタバレあります。

スーパーマンのリブート作品。私は肉弾派な作品の象徴に見えるスーパーマンは過去あまり好みではなかったのですが予告編の出来が良かったので見る事に。
(予告編の出来が良過ぎるのはまあ、よくある事です)

リアルな映像表現
エンドロールが長かったのはVFX関係者のリストのおかげです。本作も昨今のリアリティが高いCGIのメリットを生かした作品作りされてます。
また「ワールド・ウォーZ」では協力していない米軍が協力しており、C-17が活躍します。A-10、F-35も登場。(残念ながら雑魚キャラ扱いですが)
ニューヨークらしいメトロポリスの大攻防戦でのクラークとゾット将軍の部下との肉弾戦やテラフォーミングを行うワールドエンジンによる重力制御技術による「整地」など、膨大な演算量に支えられたリアルスティックな表現がこれでもかと盛り込まれていて、この点は予告編で美味しい映像を使い切っていた「WWZ」とは格段の差があると言って良いと思います。

リブート効果
クリプトン文明描写は増えているんでしょうか。政府や軍の描写が増えて世界観は明快に。現代的な視点でのディティールアップ効果はあったと思いますが、「コデックス」の扱いは中々分かりにくいファンタジー表現でありました。そもそも「コデックス」は本来の意味とは違う扱いですし。。。
ただジェネシスゾーン(だったか)でどのような社会になっているのか示していてその点は良かった。
それにしても抑圧的な社会であり、最後のゾット将軍の叫びに共感してしまうという問題も引き込んだようには思えますが。

自己犠牲の連鎖
クリプトン文明の滅亡に際して自らの子供にある使命を与えて地球に送り出したクラークの実の父母。クラークに対して「力」を見せるなと戒めてきて最後に自らを救うなと合図を送って死を受け入れた育ての父。そういった家族たちの自己犠牲、愛の上でクラークは何を成し遂げるのか、という物語構造は見ていてスナイダー監督の前作を思い出した。

自己犠牲の物語は米軍側にも及んでいて、メトロポリス側のゾット艦に対する攻撃、もともとはC-17からの空中投下によって成し遂げるはずが、C-17に飛び込んできたゾット将軍副官との死闘でコクピットを死守した搭乗員が全員戦死。最後はクラークに絡んできていた空軍大佐が操縦桿を押して機を艦に特攻させる。任務に殉じた終わり方。大佐がいう台詞がクリンゴンの「今日は死ぬにはいい日だ」に似ていて、やはり「エンゼルウォーズ」を連想してしまう。このようなテーマが好きなのかとは思った。

ゾット将軍の戦略
地球の通信系を乗っ取って流すメッセージがあまりに平和に見えたし、そのメッセージを効いた人たちの反応は感動だったと思う。で、その後で実は地球にあるクリプトン人が身を潜めているから引き渡せと言われてアメリカはとある女性ジャーナリストがネット媒体に流したゴシップ記事を元に追いつめる訳ですが、あのような事を言われたからとすぐ探すのかというと少々理解しにくい構図はあります。その方向でやるなら何か通信乗っ取り以上の武力誇示は必要だと思うのですが。「彼らのいう事は正しいから引き渡そう」となるには逆にもっと地球側を騙す描写は必要で、どうも妙な展開だなと思った次第。

クラークという存在
案外整理し切れてない。
クリプトン文明の後継者としてあるものが托されていて、それがゾット将軍に狙われる訳です。ゾット将軍の発想は地球は狭いという発想に基づいていますが文明の後継者としては間違いとは言い切れない。それは最後に語る台詞で分かる面はあるかなと。
その一方でクラークは托されたものを抱えたまま。多分続編で地球との対立要因として扱われるような予感はあります。あれは地球側(というかアメリカですか)は存在を認めにくいと思う。

あとコデックス、ゾット将軍は存在を知っているので執拗に探す訳ですが、クラークは何を探しているのか知らないまま、植民地探査船を破壊。このあたりの情報の格差の違和感は大きい。そりゃ船が破壊されそうになった時、ゾット将軍が叫ぶ訳です。(変な納得)
クラークが知り得ていない事はもっと繊細な表現が必要ではないかと思います。そういったおそらくは今後のテーマとしてあえて解決されなかった事、クラークが知らない事は観客に分かりやすく提示はされない方が、クラークにもっと共感出来たと思う。
本作がおそらくはシリーズ第1作を目指した事の副作用ですが、脚本処理ミスと見た方がいいかなと思った次第。

エンジェルウォーズとの対比
エンジェルウォーズは執拗な与えれた使命・運命論がテーマでした。クリプトン文明の人のあり方は、生まれてくるときからまさしく使命が与えられていて、そこに自己犠牲というテーマが加わる構造。
本作はクラークの両親がそこを打破して「自由」を語ったというのは何気に発想の転換はされている。これはコミックス原作に沿ったものなのかスナイダー監督が思う使命論の転換なのかは、スナイダー監督の今後の作品を見て行かないと分からないですが、興味深い違いだとは思ってます。