8月14日レイトショーで視聴。
・学生運動の描写は大甘。「マイ・バック・ページ」「ノルウェイの森」と学生時代を描いた作品はあった訳ですが、学生運動のネガティブな点はばっさり切る事でノスタルジーが大きくクローズアップされた作品になっています。
・ノンポリや体育会等の体制派の描写が討論会等で若干描かれていた程度だったのは政治的な要素を排除した結果でしょう。ただ、学校側の教頭?、体育教師に踏み込まれる直前から校歌を歌うシーンがありますが、ここで教師側が何も言わずににらんで出て行くシーンの必然性は弱いです。
・論点がクラブハウスの建て替えなんだものなあと。そのこと自体はありがちですが、だいたいは「大人の事情」か 「大人が悪い事するネタにする」展開が想定されるところ、あまりにこざっぱりとまとめたので驚きました。
これ、逆を言えば「カルチェラタン」を取り壊さなければならない理由がないという事も意味します。それでいいのかな、と思った。
・この点は宇野常寛「宮崎駿が峻別するいい戦後と悪い戦後」(asahi.com WEBRONZA)の見出しがすべてを物語っている。
http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/2011080400017.html?iref=webronza
・メルが「チボー家の人々」に学校新聞を挟み込むシーン発見。本作品と同じ構図が作品中にあるからだと思いますが、誰が入れて来たのだろうか。
・メルの父親はLSTに乗って戦死との件。気になって調べてみたら本当にあった事実。50隻2000名、船長以下全員が日本人乗組員で編成されていたとの事。(軍人ではなく軍雇用の扱いだったとの事)
海上保安庁による掃海作戦以外にこのような事実があるとは思いませんでした。
(こんなネタが入っているのは宮崎駿脚本だから、でしょうね。(原作は「遭難」とのみ記載))
参考: http://www.oct.zaq.ne.jp/afalv507/heiwa1.htm
・学校理事長として徳間書店の人が登場。原作漫画はもともと講談社の少女漫画誌に掲載。今回の映画化にあたり角川書店が再単行本化なので、宮崎駿監督による徳間氏へのオマージュなのかなと思った。
・学生運動の描写、本来起きうる事態は米澤穂信「氷菓」(古典部シリーズ。角川文庫)で描かれている所です。
我が国では誰かが押上げられて直訴に行けば、処罰されるのが普通です。(ラインを飛び越える=秩序を乱したとされる)
・本作の場合、徳間社長がモデルらしい人物が豪快に笑ってOKしてしまうという、1970年頃の日本喜劇映画的展開。まあ、本題ではないので構わないと言えば構わないですが、何かを得たのに何も失っていないのは納得し難い。
・おばあさん、決定的な役割を果たすかと思ったら途中からほぼ存在感なし。
・風間俊の父が何故3人組の最後の生き残りと話をするつもりになったのか。松崎父の子供と信じていた描写があるだけに謎です。
ここまで明るく仕上げるなら、もういっそミュージカル仕立てにした方が良かったのではないかと思わせるものがありますね。(多分に宮崎駿脚本に起因するところかと思いますが)
宮崎吾郎監督の演出は、普通の日常を切り取る所に全力を挙げていると思います。それは執拗に出てくるメルの朝食シーンに現れているかと。そう考えて行くと、本作のようなノスタルジーより「日常の謎」系ミステリーの映像化の方が宮﨑吾郎監督の適性があるのではないでしょうか。こう考えて行くと1作目の迷走というか瞑想的演出になってしまった事も分かるような気はします。
追記:原作文庫版の巻末に宮﨑吾郎監督の独り語りが入っていますが、監督は意義等見出そうとして当初は暗いテイストだったらしい。そこに鈴木プロデューサーの「明るく、テンポよく」と、ポスターとなった宮崎駿監督の信号旗掲揚の絵を見て、このような作品に変わったのだとの事。このような舞台裏が率直に語られるのは凄い。(普通隠してしまうところでしょう)
また吾郎監督案がどのような内容だったのかも見てみたいですね。