2019年6月15日土曜日

映画「芳華」と天安門事件

 文化大革命、毛沢東の死、知られざる中越戦争を描いた「芳華」についてちょっと気になった事があるので触れてみたい。




1.歴史の荒波に翻弄された主人公二人を描いた映画「芳華」のあらすじ

 文化大革命で知識人の下放が多発した時代の人民解放軍の文工団(歌劇・音楽部隊)に歌劇要員として入隊したホー・シャオピンと歌劇要員から美術担当に転じた兵科勤務経験者にして部隊の模範と言われたリウ・フォン。
 シャオピンは父親が下放されており、その事を隠して17歳で文工団配属された。父母は離婚しており継父と生まれた弟、妹から疎外され続けたシャオピン。期待を胸に膨らませてやってきた文工団でもある事からいじめられた(但し劇中でその事を強く描いたりはしていない。二つある理由のうちの一つは体臭であり多汗症だからという。そういう設定があって時折描写されたり台詞で触れたりするに止まる)。
 フォンはいじめられているシャオピンをかばい、体を壊して踊れなくなると美術で懸命に働いた。そんな彼が恋した相手に告白して抱きしめてしまったことで性的な暴行と取られ部隊を追放されて国境の補給部隊に配属される事になった。
 シャオピンはそんな彼を批判した同僚たちを許せず、慰問ツアーの最中に急遽押し付けられた歌劇主人公役を拒もうとまでした。そして彼女も部隊を離れ看護師部隊に配属される。
 そしてやってきた中越戦争。フォンは前線への補給任務の途中、視界の効かない背の高い草に覆われた場所で待ち伏せ攻撃を受ける。負傷しつつも味方の増援が押し返していく中で後送を拒み腕を失う事になる。
 一方、シャオピンは国境にほど近い駅に設けられた野戦病院に配属されており、戦闘で悲惨な負傷をした兵士たちを次々と看護する事になった。そして病院にも戦火が及んだ時、入隊年齢未満なのに偽って入り瀕死の重傷を負った少年兵をシャオピンは看病していて建物が崩れ落ちた。彼女は無事だったが心はもう耐えられなかった。
 戦後、時代の変化の中で地方部隊に置かれていたシャオピンらが所属していた文工団は解散となった。シャオピンはまだ心の病が癒えず、フォンは片腕を失い除隊していた。
 そして何年か時は流れ、中国社会は拝金主義へと転じていた。フォンは社会変化にうまくのれない姿が描かれ、部隊の他の人々が何かしらの成功を掴んだ事と対照的に描かれた。
 中越戦争戦死者の軍人墓地を訪れたシャオピンとフォン。寄り添った二人は老いてから一緒に暮らすようになり、拝金主義に狂奔した他の文工団の同僚たちと比べて幸せな事だという語り手であるシャオ・スイツのモノローグが入って終わる。



2.天安門事件と「芳華」

 「芳華」の主題は主人公二人の個人的事情など斟酌せず中越戦争という武力衝突によって決定的に人生の行方が変わる物語となっている。そしてこの作品では中越戦争後〜天安門事件以前の社会は描かない。天安門事件後の拝金主義に適応した同僚たちとそうはなれなかったフォンとシャオピンの姿が描かれる。フォンはある事件を除き一貫して正しくあった。そんな彼は社会の変化にうまく乗れなかった。シャオピンは心の傷はある程度癒えたもののやはり他の同僚たちとは異なる人生を歩んでいる。

 「芳華」は中越戦争を天安門事件の代わりとして間接的に描いた作品だと思う。それは文工団解散、復員したフォンを描いた後、一気に天安門事件後の中国社会を描くところまで時を進めて語っているところでも分かる。そこでフォンやシャオ・スイツが遭遇したのは拝金主義にひた走り始め物質が豊かになり始めた時の中国である。

 天安門事件を目撃した人々のインタビュー書を読んでいて、彼らが語る事件後の社会の変化について増えている話を読んで「芳華」における中越戦争の前後とは天安門事件の前後と読み替えが可能だと気付いた。天安門事件を体験した人にとっても「芳華」は共感する所が多かったんじゃないかと思った。
 天安門事件は中国政府にとってタブーだろう。中国国内で制作して公開される映画で到底扱える話題ではない事は想像がつく。
 中越戦争は1979年2月から1ヶ月間戦闘が繰り広げられた国境を巡る武力衝突だった。両国合計30万人規模の兵力が衝突、数万人規模の死傷者を出し、その後10年以上緊張関係をもたらした。大規模衝突は自衛戦争と称して中国人民解放軍側が先制攻撃を行っており語られない歴史ではないと思う。ただ仕掛けた戦争としては目立った戦果もなく、両国間の戦後交渉も90年代に入ってから徐々に一つずつ打開を図っている。成果を誇るような戦いであったとは思えないし、映画は当時の中国政府にあった正義を語るような事もない。タブーではないが表立って語られる事は多くはない戦争。天安門事件に似た要素を持っている。



 天安門事件は本作ではもともと主題でもなんでもない。ただ彼らはすでにそれに似たような体験をしている。その事を通じて天安門事件以後の拝金主義がどう社会を変えたのか見せている。だから天安門事件を描いていないというのは間違いだと思う。ただ直接描いてないだけであり、あの事件がなければ作られなかった作品だと信じる。