2020年1月6日月曜日

長編アニメーション映画「この世界の片隅に」・「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」用語メモ

(注意)長編アニメーション映画「この世界の片隅に」「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」で出てきた用語や登場人物の名前の由来、生年などまとめています。映画をご覧になった方のみお読み下さい。






  • 2020/1/6 昭和19年3月 角型懐中電灯 を追加。
  • 2020/1/3 昭和19年11月 「どうじゃね元気かね」 を追加。
  • 2020/1/2 昭和19年10月 波状雲 を追加。
  • 2019/8/4 昭和19年4月 公然の秘密「大和」 を追加。
  • 2018/7/30 昭和19年2月 ガラス戸・窓ガラスに飛散防止用紙を貼ったか? を追加。
  • 2018/5/19 昭和13年2月 学制 を追加。
  • 2018/5/19 昭和19年3月 旅行証明書の廃止 について情報追加。
  • 2018/3/15 昭和19年3月 女子挺身隊 を追加。
  • 2018/2/7 昭和19年8月 砂糖ヤミ価格追加(伊藤整日記) を追加。
  • 2017/8/31 昭和8年12月 鉄筋コンクリート建物の被災状況 を追加。
  • 2017/8/20 昭和20年8月 灯火管制の解除 を更新。
  • 2017/8/17 昭和19年2月 円太郎が寝落ちして呼んでいた本 を追加。
  • 2017/8/15 昭和19年8月 盆灯籠 を更新。
  • 2017/8/4 昭和8年12月 大正屋呉服店 を更新。(呉服店閉店理由を追加)
  • 2017/8/4 昭和19年2月 新聞紙面頁数の削減にみる物資不足 を追加。
  • 2017/6/27 昭和19年2月 人防空→民防空 を更新。
  • 2017/6/26 昭和20年4月 F-13 を追加。
  • 2017/6/25 昭和21年1月 建物疎開の学生たち を追加。
  • 2017/5/25 「この世界の片隅に」の人々の生年 すずさんの生月について追加。
  • 2017/5/14 昭和18年12月 「満州へお嫁に行く」、昭和19年8月 門柱と見返り柳を追加。
  • 2017/4/24 昭和19年2月 人防空→民防空 を追加。
  • 2017/4/23 昭和20年6月 耳塞げ、口開け、目が飛び出るでぇ」 を追加。
  • 2017/4/14 昭和19年9月 妊産婦手帳と妊娠届 を追加。
  • 2017/4/4 昭和19年2月 防空電球 の写真を追加。/昭和19年9月 GKF の解説を改訂。/昭和19年12月 青葉 を追加。
  • 2017/4/2 昭和19年3月 モガ、モボ を追加。
  • 2017/3/26 昭和20年8月 看護婦 を追加。
  • 2017/3/22 昭和20年8月 食糧事情 に主婦の友社「ニッポンの主婦 100年の食卓」より米の自給状況などの記述を追加。
  • 2017/2/27 昭和19年8月 公娼制度 を追加。
  • 2017/2/22 昭和19年2月 防空電球 を追加。
  • 2017/2/18 昭和19年5月 付木 を追加。
  • 2017/2/17 昭和19年3月 金属回収 を追加。
  • 2017/2/16 昭和19年8月 盆灯籠 を追加。
  • 2017/2/14 昭和19年2月 木炭自動車 を追加。
  • 2017/2/11 昭和19年3月 海軍休日 を追加。
  • 2017/2/11 昭和21年1月 海軍省・第二復員省 を追加。
  • 2017/2/4 昭和19年12月 (海軍)艦内帽・略帽 を追加。
  • 2017/1/19 昭和16年12月 開戦 を追加。
  • 2017/1/19 昭和20年8月 食糧事情に「食糧も大丈夫也」(書籍)を追加。
  • 2017/1/16 昭和19年8月 吉沢久子日記ヤミ価格 を追加。
  • 2017/1/15 昭和19年9月 軍港衛兵 を追加。
  • 2017/1/14 昭和19年3月 決戦非常措置要綱、旅客ノ輸送制限ニ関スル件 を追加。
  • 2017/1/6 昭和20年5月 海軍文武官の手傘使用禁止 を追加。
  • 2017/1/3 旧澤原邸住宅三ツ蔵、海軍病院階段、番兵小屋 の写真を追加。
  • 2017/1/2 灰ヶ峰砲台跡、旧海軍工廠造船部、旧海軍下士官集会所、呉線、小春橋、小麗女島、江波、中島本町 の写真を追加。
  • 2017/1/1 昭和21年1月 原爆白内障 を追加。
  • 2016/12/28 昭和21年1月 児童福祉法 を追加。
  • 2016/12/21 昭和19年8月 ヤミ価格 を追加。
  • 2016/12/20 昭和20年8月 15日正午のラジオ放送 を追加。
  • 2016/12/17 昭和20年6月 電探欺瞞紙・チャフ を追加。
  • 2016/12/14 (訂正)吉島飛行場について説明を誤っていましたので訂正しました。(広島ヘリポートの前身の空港は戦後別の埋め立て地に設けられており、吉島飛行場は廃止されています。大変失礼致しました)





























1.「この世界の片隅に」の人々の生年

 登場人物の命名については3.にて掲載しました。

浦野家

  • 十郎:不明。キセノさんとそう変わらないだろうと想像
  • キセノ:明治35年(1902年)生まれ
    →すずの里帰りで寅年と言及。(原作)
  • 要一:大正11年(1922年)生まれ?
    →昭和18年4月入営(映画)前年20歳から推定
  • すみ:大正15年/昭和元年(1926年)生まれ
    →すずの里帰りで寅年と言及。(原作)

森田家

  • イト:すずの祖母
  • すずの叔父:森田家の入り婿?。昭和10年にすずたち兄妹三人を出迎えていたが、以降登場していない。昭和18年12月では言及があった。(召集されたか離婚して出て行ったのか病気等で亡くなったのか。その後は作中では触れられておらず状況不明→原作中巻98ページの昭和20年1月の愛國かるた「出征家族へお手傳ひ」で森田家の海苔養殖を手伝うすずさんが描かれていて、森田の叔父さんが出征している事が分かる。(ANGUS氏(@leharuya)ツイートによる))
  • マリナ:すずの叔母(キセノと姉妹?)
  • 千鶴子:昭和9年(1934年)生まれ(絵コンテ集64ページに注釈記載あり)
    →昭和10年マリナに背負われた赤ん坊として登場

北條家

  • 円太郎:広海軍工廠航空機製造部署の技師?
  • サン:何気にどこから来られたのか等は明かされなかった人
  • 周作:大正10年(1921年)生まれ
  • すず:大正14年(1925年)生まれ→昭和18年12月で満18歳と言及(映画・原作)片渕監督のお話(岐阜CINEXのトークセッション)によると、すずさんは5月生まれらしい。

黒村家

  • キンヤ:径子の夫
  • 径子:大正5年(1916年)生まれ。周作の姉。昭和20年の名札に29歳と記している。(映画)
  • 久夫:昭和12年(1937年)生まれ?(映画)長男。黒村家の跡取り息子
  • 晴美:昭和14年(1939年)生まれ。長女
    昭和20年4月に国民学校入学。(映画・原作)

小林家

  • 径子・周作の叔父
  • 径子・周作の叔母:円太郎の姉にあたる

水原家

  • 哲の兄:大正10年(1921年)生まれ。昭和13年(1938年)1月に事故死。哲とすずの会話で周作と同年齢との言及あり
  • 哲:大正14年(1925年)生まれ。すずの小学校の同級生

番外編

  • 青葉:一等巡洋艦。大正15年(1926年)9月進水、昭和2年(1927年)9月就役
  • 大和:戦艦。昭和15年(1940年)8月進水、昭和16年(1941年)12月就役

大正14年(1925年)〜昭和2年(1927年)前後の生まれの人:

  • 三島由紀夫(大正14年)
  • ポール・モーリア(大正14年)
  • 大滝秀治(大正14年)
  • 芥川也寸志(大正14年)
  • 森英恵(大正15年)
  • 梶山静六(大正15年)
  • 渡邉恒雄(大正15年)
  • 宮脇俊三(大正15年)
  • 藤森昭一(昭和元年)
  • 吉村昭(昭和2年)
  • 半藤一利(昭和5年)

2.「この世界の片隅に」気になった用語集

昭和8年12月

  • 相生橋:昭和8年当時は中州側に渡る別の人道橋が架けられていて橋同士はつながってなかった。昭和15年に今日も見られるT字型となり、昭和58年(1983年)に現在の橋に架け替えられた時も踏襲された。
相生橋
  • 県産業奨励館:現在の原爆ドーム。
県産業奨励館(現・原爆ドーム)
  • 大正屋呉服店:大正屋呉服店のビルとして竣工。昭和18年末繊維統制令で店が閉鎖に。昭和19年6月に国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を買収。あの日の爆心地から近いこのビルを含む町の方の大半が亡くなった(たまたま地下室にいた方が一人無事だった)。
    この建物も損傷を受けたものの戦後すぐ修理されて燃料会館となり、昭和32年には広島市東部復興事務所となった。現在はレストハウスとなっている(説明板より)。
    損傷状況については朝日新聞に9月時点の写真が掲載されているが、爆心方向は開口部がない側だったという。
  • 鉄筋コンクリート建物の被災状況
    毎日新聞が3日後の8月9日の広島市内の被災状況を写真に記録しているが被災したビルは窓ガラスが全て割れ建物内は全て炎上している(中国新聞社建物)
    戦後の建物の不足から基礎構造が無事だった建物は修理再使用された。
  • 長崎市の鎮西学院がレポートをまとめている。フロア別の状況が記されており大変参考になる。
    「鎮西学院中学校は爆心地の西方約0.5km、小高い丘の上にある、「コンクリート」4階建てとその西南隅に接続する木造の独立家屋(雨天体操場)からなっている。学生の教育のほかに三菱製鋼会社、三菱電機会社の工場として使用されていた。爆発の当時建築物内には学校職員10名、残留生徒21名、工員87名、計118名がいた。
    この建物は爆発衝撃をまともに受ける位置にあったため、惨害殊に著しく、4階面は全部崩壊、3階面もまた爆心に近い北側面は著しく崩壊するに至った。人員では即死68名、後日死35名、生存僅かに15名である。生存者もほとんど全部障害を受け、無障害者はただ1人であった。
    フロア別の被害状況はリンク先のPDFを参照して欲しいが、地下室におられた方でも負傷しており、放射線障害の症状も出ている。奇跡的に無事だった方は135人中たったの1人だった。
    なお建物の健在だった時の姿と被爆後の姿が写真掲載されているが、4階と3階の一部は倒壊状態。2階以下は建物構造が無事なだけで内部は壊滅的な被害を受けている。
大正屋呉服店(現レストハウス)

左側はショーウィンドウとなっていた。
すずさんはこの左側(北側)で立っていた。冬なのになぜ北側!?
  • 本川橋近くの船着き場
本川橋近くの船着き場
  • 江波
江波の川縁。相生橋と江波は川を通してつながっている。

海神宮。江波港にある神社。この建物もまたあの日を越えて今日に伝えられた。
  • ふたば:中島本町の海苔の納品先。名前は原作を刊行していた双葉社に由来すると思われる。なお昭和19年8月呉でも「二葉」という屋号が出てくるが、いずれも重要な登場人物とすずさんとの因果で共通項があるので意図的な命名と推測。

昭和13年2月

  • 江波気象台:現在の江波気象館(博物施設)。山頂の二本のアンテナ塔が特徴的。
江波気象台(現江波気象館)と江波港
江波界隈は川の堤防や東西を貫く高速の高架道路が出来て大きく様子が変わってますが、
すずさんとすみちゃんが駆けていった商店や
漁港の付近の地形など当時の雰囲気を察せられる場所も多い。
  • 学制文部科学省「学校系統図」参照。国民学校に改編されたのは昭和19年であった。すずさん、すみちゃんが通っていた頃は尋常小学校・高等小学校だった。

昭和16年12月

  • 開戦:ハフィントン・ポスト『真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」』で太平洋戦争へ到った要因を分析されている。新聞をはじめとして世論が反ルーズベルトだった理由について触れられていますが(30年代の政府誘導が影響)、一番の失策は三国同盟の締結と決して離脱を認めなかった事と二回にわたる仏領インドシナ「進駐」(中でも第2回目の南部進駐)で米国を呆れさせた所にあったので、この点では政府と軍部の責任は大きい。
    太平洋戦争開戦時、既に日中戦争で閉塞感が強く、新しい戦争を始めて準備のない相手に緒戦を勝った事がその閉塞感を打ち払ったかに見えた事は開戦時の一部の国民の熱狂の元になっている。
    金属供出や石油不足からの高騰(東京では屎尿回収車を動かせなくなり、リヤカーで人力回収に切り替えた事で屎尿回収の遅れが起きて問題にもなった)などがあり、日常を維持するための資源すら既に日中戦争が奪っていたのが実情であり、アメリカからの輸入が不可欠な国がそれを失ってなんとかなると何故考えられたのか。
    戦争事前研究でも対米戦勝ち目なしとの報告もあったのに最終目標が定義されずに戦争に突入した論理は謎に満ちている。
  • 首相:元老・重臣が天皇に推薦して大命降下という形で指名する形式で選ばれており、実質的拒否権を持っていたのは陸海軍(大臣の現役将官制が復活しており、大臣を出さない形で組閣を潰せた)や閣僚自身(内務相の反対による閣内不一致により総辞職に到った若槻内閣の事例がある)のみで議会が制度的に組閣に関わる仕組みはなかった。
    昭和初期までは議会与党の総裁に対して組閣の大命が降りる事が多かったが昭和7年(1932年)犬養毅首相暗殺事件後は退役もしくは予備役軍人(ごく少ない例外が外交官の広田弘毅、検事出身の平沼騏一郎、貴族の近衛文麿)に対して挙国一致内閣と称して大命が降りる事が常態化した。

昭和18年4月

昭和18年12月

  • (海軍)セイラー服:日本海軍の場合、水兵(兵卒)の制服はセイラー服となっていて一目で兵卒か士官・下士官か見分けが付く。
  • (海軍)水兵の臂章:軍服右腕には階級章、善行章を付けた。水兵の階級章は錨マークの上の線の数で階級を示しており、二等水兵=なし、一等水兵=1本、上等水兵=2本、兵長=3本となっていた。(昭和17年改正後の内容で記載)
    水原哲はこの時、線が2本の特技マーク付の上等水兵になっていた。
  • (海軍)特技マーク:術科学校修了者は軍服左腕に特技マークを付ける事が出来た。特技マークは2種類あり、下士官進級に必要な術科学校普通科修了、准士官任官に必要な高等科修了を示した。(昭和17年改正後の内容で記載)
  • 当時の結婚事情:(お見合い結婚・恋愛結婚比率)
    1930〜39年 69.0%・13.4%
    1940〜44年 69.1%・14.6%
    1945〜49年 59.8%・21.4%
    戦後急速に恋愛結婚が増えて1965〜69年で逆転している。
    (出典:平成25年度厚生白書73ページ(PDF18ページ目)
  • 「満州へお嫁に行く」:お米は昭和30年半ばまで常に必要量を内地で賄う事ができなかった主食穀物でした。そのせいか戦前から戦後しばらくまで農村部で海外移民開拓団(南米、満蒙)が結成されて送り出されている。これは国策でもありました。
    そういう背景があってすみちゃんがお箸の持つ位置=結婚先と実家の距離を意識した台詞を言っている。

昭和19年2月

灯火管制用カバーと防空電球(滋賀県平和祈念館所蔵)
  • 円太郎が寝落ちして呼んでいた本:航空機関係の専門書らしい。(Twitter国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。(国立図書館及び送信館のみ対象)
  • 鯉5173:すずさんが書いているはがきの宛先の「壕北派遣鯉5173河野隊」のうち「鯉5173」は歩兵第11連隊(広島)の通称。この連隊はニューギニア戦線に属する離島に展開していた。
    河野隊はその中の大隊の指揮官名ではないかと想像。(指摘されている方を見かけましたが、原作著者のこうの史代さん→「河野」か!という)
  • 常会内務省訓令第十七号 部落会町内会等整備要領によると市町村/部落会・町内会/隣保班(隣組)で自治体・住民を組織化して常会(定期的な会合)の開催を求めていた。映画中で描かれる常会はおそらく隣保班常会の事で、市町村常会から部落会・町内会常会を経由して情報や指示、指導事項の伝達が行われていた。なお市町村に対しては近衛首相が作り議会民主制を決定的に壊した大政翼賛会が指導を行うという図式になっていた。(参考:『福井県史』
  • 人防空→民防空:常会で焼夷弾関係の講習をしていた際に言及。字幕版では「人防空」と出ていたが、「民防空」の間違いだと思われる。民防空=国民防空、民間防空の略称で今なら民間防衛と訳される。国会図書館デジタルアーカイブでもこの言葉で冊子がヒットして出てくる。
    川口朋子「建物疎開と都市防空」では軍防空の対義語として民防空を紹介している。
  • ガラス戸・窓ガラスに飛散防止用紙を貼ったか?:原作では飛散防止の紙を貼っている描写があるが映画では貼らない形に修正されている。実際そのような対応は取られていないと監督は指摘されており、筆者も平和祈念館などの展示パネルを見ているが紙テープを貼っているケースはまずなかった。なお「時局防空必携昭和18年改訂」によると、隣家に接する側の戸・ガラス戸は鍵はせずに閉めておく(延焼防止)、そしてそれ以外の戸・ガラス戸は爆風などで壊れないように開けておくか外しておく事を推奨している。飛散防止で紙を貼る点については尚飛散するので危険のないように配慮するように書かれている。
  • 角型懐中電灯:浦野家の居間のタンスの上にあった角型携帯電灯は松下電気器具製作所(現在のパナソニック)が1927年に「ナショナル」ブランドで発売した懐中電灯「ナショナルランプ」に見える。
    朝日新聞「伝統の角型ランプ、パナが復刻 初のナショナル商標」2018年2月21日記事
    パナソニック 強力マルチライト BF-MK10archive.today

昭和19年3月

    • モガ:モダンガールのこと。大正後期から昭和初期に独特の現代娘。断髪にハイヒールでキネマ・ダンス・スポーツを好むなど開放的で享楽的な若い女性を言った。(小学館 精選版 日本国語大辞典より)
    • モボ:モダンボーイのこと。大正後期から昭和初期、モダンガールに対応して、当世風で新しがり屋の青年をいった。ちょびひげ、ラッパズボン、ステッキなどの装いを特徴とした。(小学館 精選版 日本国語大辞典より)
    • 平和のための軍縮:昭和5年(1930年)ロンドン海軍軍縮条約の事。この時、周作が尋常小学4年生(9歳)。この軍縮の影響で海軍工廠も人員整理を行ったらしく円太郎が造船から航空系の海軍工廠へ転身するきっかけでもあった。
    • 海軍休日:1921年〜1922年に日米英などが中心になってワシントンD.Cで開催された海軍軍縮会議はワシントン海軍軍縮条約として批准された。この条約により戦艦の新規建造凍結、戦艦と空母の保有制限が掛けられた。日米英間で海軍軍縮条約が機能した1922年〜1936年の間を戦艦の建造凍結を踏まえて「海軍休日」(Naval holiday)と呼んだ。
      1930年ロンドン海軍軍縮条約はこのワシントン条約の改定にあたり規制外とされていた補助艦に対する規制が盛り込まれた。この時の日本と米英の保有比率について日本海軍部内で艦隊派・条約派の深刻な対立を産んだ他、更に政治と軍部の間で統帥権干犯問題を引き起こした事で政治に対する軍部の優越が起きるきっかけとなった。これは内閣がロンドンの代表団に批准を命じた電報を海軍に連絡なしに発した事が兵力などの策定は軍の統帥事項に当たるので違憲行為だとして犬養毅ら政党政治家と軍関係者が非難したもので、太平洋戦争へとつながる政治システムの破綻の要因の一つとなったが、条約自体は批准する事が出来た。
      日本は1934年第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉で戦力比を米英と同じにするように求めたが主張が通らなかった為、条約からの脱退を通告した。1936年にロンドン海軍軍縮条約が失効した事に伴い15年間の海軍休日は終わりを告げた。
    • 陰膳:異境の地などに行っており長期不在の家族の分の食事も食卓に並べて飢えないように、また無事を祈る事。
    • 落とし紙とお手洗い:落とし紙はトイレットペーパー相当。新聞紙や紙を丸めて柔らかくして適当な大きさに切りそろえて使用。北條家では足が少し不自由なサンとすずが作っているシーンが入っている。
      岐阜県飛騨地方の村では紙が手に入らず布を洗って使い回したという体験談が残っていて、すずさんがある紙を利用したのは当然の選択のようにも思える。
      北條家のお手洗いはくみ取りでおそらく玄関から見て左端外に廊下が面している角にあると推定。(煙突型の臭突があるので、まずは間違いないはず)
    • 決戦非常措置要綱:昭和19年2月25日閣議決定。原文内容はこちらを参照。
      「八、重点輸送ノ強化 旅行ヲ徹底的ニ制限シ、線路ノ転用ヲ強化シ、以テ戦力増強並ニ防空疎開ニ必要ナル輸送ヲ強化ス」
      この他にも様々な措置が緊急事態だとして導入されている。物資不足の本格化が露わになってきた事への対応でもあった。

      朝日新聞に載った解説記事見出し:
      一、学徒動員 校舎も工場化 行学一体の戦時教育へ
      二、国民勤労 女子挺身隊強制加入 家庭の婦人も勤労動員
      三、防空強化 人の集団疎開も促進
      四、食糧配給 配給機構に公共性
      五、空地利用
      六、製造禁止 必需以外禁止
      七、高級享楽禁止 大衆食堂の増加へ
      八、事務停止
      九、(海運関係。別途記事が載っておりここでは割愛されたらしい)
      十、事務停止
      十一、権限委任 大綱のみ指示
      十二、裁判迅速化
      十三、保有物資活用 手持ちを戦力へ
      十四、信賞必罰 民間会社にも実施
      十五、官庁休日縮減 日曜も執務
    • 新聞紙面頁数の削減にみる物資不足:朝日新聞も2月26日朝刊で詳しく紹介記事を載せていた。
      この決戦非常措置要綱の閣議決定は物資不足が危機的段階に入った象徴でもある。
      物資不足の問題は例えば新聞縮刷版=新聞紙面の頁数から分かる。昭和17年、18年と横ばいだったが昭和19年、20年と急激に減っている。図書館で書架に並ぶ縮刷版を見て貰えば一目瞭然だろう。再び頁数が増える方向に転じたのは昭和23年で戦前水準に戻ったのは昭和27年だった。

      朝日新聞縮刷版の冊数推移
      昭和16年 12冊(1ヶ月1冊)
      昭和17〜18年 6冊(2ヶ月1冊)
      昭和19年 4冊(3ヶ月1冊)
      昭和20〜22年 2冊(6ヶ月1冊)
      昭和23〜25年 3冊(4ヶ月1冊)
      昭和26年 6冊(2ヶ月1冊)
      昭和27年 12冊(1ヶ月1冊)
    • 旅客ノ輸送制限ニ関スル件:決戦非常措置要綱の旅行徹底制限に関する詳細にあたる。旅行証明制度により民間人移動の制限を入れようとした。「戦時下における旅行制限とガイドブック」によると東京都区内・川崎市内・横浜市内発についてまず制度が実施されたが、警察署の事務増加に対する反対から5ヶ月で廃止されたという。(警察署が許可書類を濫発したとの説(汚職のネタにしたのでは?とは清沢洌日記で推測されている)を「旅行のモダニズム」では紹介されており諸説ある。
      伊藤整日記8月31日の記述によると小磯新内閣の発表で旅行証明書が廃止され、前日申告・身分証明書の提示で切符購入出来る事になった)
    • 金属回収:昭和12年(1937年)に日本故銅統制株式会社が設立された事を皮切りに各種物資統制、廃品取扱業者の一元的組織化が行われた。隣組・隣保班を通じた回収体制は昭和13年には始まっており昭和15年には全国的な体制になっていった。
      昭和14年には官公庁で特別回収(死蔵・または現に使用している品物を国家的見地からより価値の高い用途に転換する事。(廃品回収は一般回収と呼んだ))が行われていたが、米国のくず鉄対日輸出禁止措置を受けて特別回収の実施が進んだ。昭和16年には金属回収令が定められて家庭や小企業の門扉・塀などの供出による特別回収も行われるに到った。ただこのようにして回収された金属は品質不明で精錬が困難かつ製造施設の損傷原因になっておりデメリットも目立っている。
      この他、非常回収と呼ばれる未稼働・不要不急設備や仕掛品をターゲットとした回収が昭和18年より法整備により本格実施されている。
    • 女子挺身隊:女子の勤労動員を指す。昭和18年4月「女子勤労動員促進」が閣議決定され、9月十七職種(事務補助から鉄道出札係・車掌まで)の男子就業が禁止され、未婚女子の組織化が立案され宣伝が行われた。昭和19年1月19日女子挺身隊が結成された。3月挺身隊制度強化の要綱が発表され、地域・職域・学校別に隊が組織され、さらに8月これらを義務化する法制が定まり(女子挺身勤労令)、二十歳から四十歳の未婚女子の職場進出が強制された。
      しかし「家庭の根軸たる者を除」くとされ、動員ははかどらず、作業の事故も多く効果はあがらなかった。終戦時の隊員数は四十七万とされている。(国史大事典より抜粋)

    昭和19年4月

    • ドイツのUボート:ドイツ海軍潜水艦元U-511。日本海軍潜水艦呂号500。ドイツが日本に譲渡した潜水艦。仏ロリアン軍港を出撃、途中商船攻撃など行いながら90日間の航海を経て1943年8月呉へ入港。同年9月に潜水艦呂号500として日本海軍籍が与えられた。技術移転目的と言われていたが本艦を元にした新型潜水艦は建造されず実戦にも投入される事なく舞鶴で敗戦の日を迎えた。戦後、米軍が海没処分に付している。
      (参考:朝日新聞「ヒトラーの贈り物 Uボート日本来航記」記事の一部は無料で読めます。各電子書店で電子書籍版の購入が可能(Kinoppyは確認済))
    • 公然の秘密「大和」:国民が知らなかったのではないかという説があるのですが以下の日記で大和の噂を聞いたとの話が載ってます。山田風太郎はこの時、沖電気の工員、伊藤整は小説家で学校講師、新潮社勤務などさいており軍務とは無縁な人でした。
      山田風太郎日記(昭和18年2月)友人で駆逐艦乗りになった海軍少尉が南方出陣前に風太郎を訪問。夜を徹して話し込んでいてそこで大和、武蔵という8万トン級新型戦艦があるとの話を聞かされている。
      伊藤整日記(昭和20年2月)日本文学報国会の会合で4万トンだか7万トンだかの大戦艦大和、武蔵が沈められたとの話を聞かされている。大和沈没はこの時点ではデマだったが、比島沖海戦で艦隊が壊滅したこと、連合艦隊司令部が東京にあるのじゃないか(実際は日吉)、陸奥が瀬戸内海で爆沈しているなど比較的正確な情報が流れていた。

    昭和19年5月

    • 付木(つけぎ):「杉や檜などの薄い木片の一端に硫黄を塗りつけたもの。火を移し点じる時に用いる。」(精選版日本国語大辞典より)北條家のかまどの上にぶら下げられている束が該当。当然使われているので時により量が変動して描かれている。
    • 火なしコンロ:戦中には燃料節約のため利用を推奨されていた保温器。といっても現代のように真空断熱を利用した魔法瓶型ではなく紙くずなどを詰めて鍋の保温を図った。昭和20年の防空壕の中でも出てきており、調理中の釜や鍋を入れて退避させて生煮え再発防止を図っていた様子も見られる。
      火なしコンロは「主婦の友」昭和20年11月号でも掲載されており戦後も物資不足が続いていた事が分かる。

    昭和19年6月

    • サイパンの戦い:6月15日〜7月9日。本土爆撃の足がかりを与える事になった。岩手県出身兵士の日中戦争〜太平洋戦争の戦死者約3万人のうち9割近くは昭和19年以降に亡くなっている。(加藤陽子「とめられなかった戦争」文春文庫)
      本土空襲と米軍の侵攻、その侵攻から外れた地に残された部隊での餓死(太平洋戦争の日本軍戦死者の6割は餓死が死因と言われている)で日本の敗戦までの約1年間、戦争の終え方を中々見出せなかった事で多大な犠牲を国民が払う結果となった。
    • マリアナ沖海戦:6月19日〜20日。航空母艦3隻撃沈(大鳳、翔鶴、飛鷹)されるという大敗に終わった。米側は圧倒的な航空優勢で進める事が出来たこの戦いを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。(飛鷹は作中で艦影を見ての言及あり)
    • ラジオ:当時のラジオ放送はNHKのみ。北條家では普段は広島放送局の周波数に合わせていた。映画も原作も防空情報の受信に利用しているが、音楽なども流されていた。

    昭和19年7月



    • 防空壕掘り:北條家の庭で隣保班の人たちが協力して掘っていますが、よく見ると刈谷さんが二人おりんさる。筆者が思わず涙するカットでもある。
    • 陸軍の襟章(下士官・兵士):襟章の緋色地質に星と線で階級を示す。
      兵:二等兵(星1個)/一等兵(星2個)/上等兵(星3個)/兵長(線1本)
      下士官:伍長(星1個・線1本)/軍曹(星2個・線1本)/曹長(星3個・線1本)
      (長ノ木まで登ってきた陸軍の人の襟章は星2個+線=軍曹、星3個=上等兵)
    • 陸軍憲兵:原作と映画では陸海軍対立の図式を見せつつコメディの相手方として登場。劇中では軍機密保持という名分ですずさんを厳重注意しているが、国内では特高警察と並ぶ思想警察でもあった。
      服装は陸軍将兵のそれと同じで腕章が一番の識別点になる。また武装はライフルを持つことは少なく下士官兵でも軍刀、拳銃を与えられていた。
      陸軍憲兵は軍の警察として対外の防諜など担当していたが、実際にはもっと広範な警察的な機能を持っていて軍以外の一般国民の事案(政治・思想、労働争議など含む)の捜査、検挙を行っている。また占領地での警察業務も行っており圧政の手先となっていて戦後の戦犯裁判では多くの憲兵将兵が有罪となった。拷問なども行っていたと言われ、特高警察共々戦前・戦中の負の側面であったと言える。
    • 陸海軍の対立:どこの国でも多かれ少なかれあるが陸軍と海軍は激しい対立関係にあった。日本陸海軍の場合、手本にした国が異なっていて(陸軍:仏→独、海軍:英国)戦略思想も陸軍が大陸、特に対ソ重視、海軍が対米重視と全く異なっていた。
      予算の取り合いもあったり、竹槍事件(海軍航空が重要と毎日新聞の記者が書いた所、東条首相の激怒を招き懲罰召集で硫黄島に送ろうとした。海軍が介入して記者は徴兵解除されて海外取材に送り出されたが、彼を召集するために他の同年代の中年世代の人が巻き添え召集されて硫黄島で全員戦死したとみられている)のような事まで起きている。
    • 灰ヶ峰:呉市街地を囲む山並みの中で一番高い700m超の山。山頂に海軍砲台が置かれていて、砲座跡が1基残されており展望台の基礎に転用されている。
    灰ヶ峰海軍砲台跡の台座を転用した展望台
    右下の擁壁は当時のもの(上物の構造物の由来は不明)

    灰ヶ峰展望台の下部

    灰ヶ峰海軍砲台時代からのものと思われる石積みの擁壁

    灰ヶ峰から見た呉市街地
    灰ヶ峰から見た休山
    • トンビ:呉の山ではトンビが鳴きながら飛んでいる。山と海が近いためか、市街地でもその姿と声を聞く事がある。

    昭和19年8月

    • ヤミ価格:すずさんは醤油など扱う店でヤミ価格で砂糖を買っていた。(その後ろでは文房具屋さん?が在庫を切らしているかのような貼り紙をしているのに、お客さんにどこからか出してきた絵の具を見せていて、こっそり公定価格以外の金額で売っていたらしき描写もされている)
      なお昭和19年2月の朝日新聞では買い出しによって公定価格で買い叩かれる配給販売向け出荷が減っているとの批判記事を載せていた。砂糖を買った際に公定価格との乖離にすずさんは驚いていたが、その事が供給不足を招いた面はありそう。
    • 伊藤整『太平洋戦争日記』昭和18年4月21日 砂糖のヤミ価格8貫目160円(1斤3.3円)
    • 永井荷風『断腸亭日乗』昭和19年4月11日当時の「ヤミ値」白米一升 10円/酢一合 1円/鯣1枚 1円/鶏肉一羽 25円/醤油一升10円
      鶏卵一個70銭/砂糖一貫目(1/6で1斤) 120円(1斤20円)
      (参考)巡査の初任給 45円
    • 徳川夢声「夢声戦中日記」 砂糖一貫目価格(1/6で1斤)昭和18年
      3月22日:100円
      11月1日;250円
    • 清沢洌日記 砂糖一貫目価格(1/6で1斤) 昭和18年
      9月15日:25円〜40円、時に50円
      昭和19年
      2月1日:今や100円
      4月3日:120円は安い
      4月29日:150円で売り手なし
      7月16日:200円→すずさんは1斤20円で購入(=1貫目120円程度)安い!10月30日:300円
      昭和20年
      4月2日:600円
      ※清沢洌は外交評論家で昭和20年5月急逝するまでの間、戦後に本を書くつもりで日記を残した。なお東京在住なので呉とはまた相場が違っていたと思われる。
    • 吉沢久子日記 昭和20年1月22日会社出入りの闇屋価格  ・砂糖1貫目:500円(1斤83円)  ・アイデアルウイスキー:150円
        ・白米1升:20円
        ・お餅1升分1枚:20円
        ・牛肉百匁(375g):18円
        ・水飴1貫目:170円
        ・1級酒1升:120円
        ・浅草海苔1帖:3円50銭
        ・卵1個:2円
        ・白すぼし100匁:10円

      吉沢久子さんの月給=120円
      ボーナス(昭和19年12月24日)額面=270円
      税金24円、貯金その他差し引き20円、物資購入費6円33銭→手取り219円
      ※吉沢久子「吉沢久子、27歳の空襲日記」(文春文庫)より。吉沢さんも東京在住で鉄道省系の出版社に勤務されていた。

    • 旧澤原邸住宅 三ツ蔵
    正面は漆喰が施されており裏側に当たると思われる。 

    道が狭いので3つとも収めようとすると広角レンズが必要

    旧澤原邸住宅の表側。左側に三ツ蔵が並んでいる。
    • 盆灯籠:広島地方独特の色紙と竹を用いた灯籠でお墓に立てられる。初盆では色紙は用いず白い紙を用いるといった話が映画のスタッフルームだより#12で解説されている。

      戦死者数は昭和20年9月に内閣が国会で報告を行っていてその際の軍人の戦死・戦病死者数は陸海軍合計で50万人とされたが最終的に200万人超まで増えていった。(民間人犠牲者を加えると300万人超)
      昭和19年のお盆頃にどの程度戦死・戦病死者の通知が遺族に為されていたのか。この時の墓地の盆灯籠の色と本数を見てちょっと気になっている。

      なお加藤陽子「止められなかった戦争」(53ページ)によると岩手県出身将兵の日中戦争以後の戦死者は敗戦1年前の段階までだと1割に過ぎなかったという。残り9割が最後の1年間に戦死・病死(餓死含む)した。この比率を考えると白い盆灯籠は物資不足の結果だった可能性が高いと思う。

      (参考)岩手県出身兵士戦死者数推移
      開戦〜1942年:1,222人
      1943年:2,582人
      1944年:8,681人
      1945年〜敗戦まで:13,370人
      1945年8月16日以降:4,869人
      合計 30,724人
      (加藤陽子「止められなかった戦争」53ページより)
    • 公娼制度:公認されて営業する売春婦。昭和21年(1946)連合国最高司令部(GHQ)の指令により廃止された。(小学館 精選版 日本国語大辞典 iOS版より)
      戦前の遊郭にどのように女性が連れてこられてかなどについては当事者だった方が書かれた森光子「吉原花魁日記」(朝日文庫)が詳しい。(この本の表紙イラストはこうの史代さんが手掛けられている)
      基本的には自由契約の論理で借金の代わりに年季奉公として連れてこられる。上記本だと何をさせられるかは説明はなく、単にいい服を着て客の接待をすればいいというふうに言われていたらしい。で、どのような条件で何をさせられるか知るのは遊郭に着いてからだった。

      原作だとテルちゃんは風邪で寝込んでいるのに「さて 夜までに風邪治さんとねー」(こうの史代「この世界の片隅に」中巻112ページ)と言っている。枕元には薬類は見当たらなかったあたりから察せられる事は多い。(その後どうなったかは原作中巻をお読み下さい)

      なお男性だと北海道のタコ部屋労働が似た手法で連れてこられている。(賭博で借金を作らせて肩代わり、「牧場で牛を見ていればいい楽な仕事」あたりで契約。工事現場では食費などどんどん取られるため借金が減らず死に至るまで働かされる。また埋葬の代わりに人柱にされた例もあったんじゃないかと言われていて、実際遺骨が出土したトンネルやコンクリート製橋脚に空洞があって遺体が投げ込まれたのではないかと言われている)
    • 門柱と見返り柳:遊郭の境界線?のところに門柱2本が立っている。表門と裏門があったようで片渕監督の話だと最初にすずさんが足を踏み入れた際は裏門→表門へと抜けたとの事。表門の写真は朝日新聞デジタルで見る事ができる。奥に通りの中央に柳の木が植えられているのが見える。これは吉原遊郭にあった「見返り柳」を模したものではないかと推定。裏門のシーンではこの柳の木は見えてなかったと思う。

    昭和19年9月

    • GKF南西方面艦隊の略号。フィリピン・マレー・インドシナ・インドネシア方面を管轄していた。すずさんがノートを持って周作の所へ届けに来た際、下士官集会所前を歩いていた海軍士官二人(うち一人は参謀飾紐を付けていた)の会話の中で登場。「のんびり」という発言は時期的にどうかなと思わせるものがあった。
      なお南西方面艦隊の隷下部隊には第16戦隊があり、同戦隊には青葉が旗艦として配置されていた。この関係があって出てきたと思われる。
    • 海軍下士官集会所:戦後海上自衛隊呉集会所として利用されていたが2004年廃止。呉市が取得して別館を改装・修理して観光施設として使う計画がある。(本館は費用上の問題から解体の予定。2017年3月18日毎日新聞広島版)
    • 軍港衛兵:集会所前の番兵小屋で警備に当たっていた水兵が「軍港衛兵」の腕章を巻いていた。立誠シネマで展示されていた設定画では若年兵ではなく年上でと指定されている。そして善行章2本を持っている階級章で線2本の上等水兵(!)。普通3年で兵長まで昇進して二等兵曹を狙える仕組みなので、そこで昇進せずに6年以上勤続している事になる。水兵の中では強い立場にいる人だったのだろうなと想像できる。
    入船山記念館に置かれた番兵小屋
    旧海軍下士官集会所と呉線

    呉線鉄橋銘板。鉄道省の文字が見える。

    • 小春橋堺川に架かる橋。左手に消防署があった。(ロケ地MAPより)
    小春橋

    昭和19年10月

    • 波状雲:縞模様のような雲。下層と上層の空気の流れる速さや向きが違う時に発生する。屋根の上の周作とすずさん、縁側の小林夫妻や径子さんの話が違っている事を象徴するようにも見える空模様でもある。
    • 波状雲の例(筆者撮影)
    • レイテ沖海戦:10月23日〜25日。史上最大の大規模海陸空戦。日本海軍も航空母艦を出撃させたが艦載機を充分集められず練度も不十分で航空母艦を主力とした米海軍部隊を釣り上げるための囮部隊として使われた。武蔵などを失う中で奇跡的にマッカーサー将軍の率いる水陸両用戦部隊目前まで辿り着いたが、米護衛空母部隊タフィ3に随伴していた駆逐艦ジョンストン、サミュエル・B・ロバーツ、ホエールなど7隻の護衛部隊の砲雷撃による必死の抵抗を受けたのち(うち艦名を挙げた3隻と護衛空母ガンビア・ベイが戦没。駆逐艦ジョンストン艦長のエヴァンス中佐は戦死)、大きな戦果を得る事なく撤退してしまい戦術・戦略両面での敗北が決定的になった(栗田提督の謎の反転と言われた)。
      この戦いは日本海軍が水上艦艇部隊の総力を投入して作戦行動させる事が出来た最後の機会となった。戦艦、重巡洋艦を多数含む圧倒的な砲雷撃力を持っているはずの日本艦隊に対しごく少数の米海軍駆逐艦が身を挺して護衛空母を守るという本務を完遂、米海軍駆逐艦部隊の勇敢さが記憶される戦いとなった。
    • レイテ島の戦い:10月20日に米軍の上陸作戦が始まっている。戦闘はルソン島などに広がり昭和20年8月まで続くことになる。(その中で大岡昇平「野火」のような出来事も起きた)
    • 日向・伊勢の帰還:両艦はレイテ戦後10月末に一度日本に戻っており、11月に再度南方へ進出した。おそらくこれが最後の戦艦の南方進出になった。

    昭和19年11月

    • 「どうじゃね元気かね」:昭和17年11月公開の映画「歌ふ狸御殿」劇中歌。タイトルとなった歌詞の部分は東条英機首相の口癖から採られたという。原作中巻61ページに注釈が入っている。
    • 大和の帰還:金剛、長門、軽巡洋艦矢矧と駆逐艦部隊と共に16日ブルネイから帰国の途に着いたが、金剛は台湾沖で米潜水艦の襲撃を受け撃沈された。23日に呉へ帰投。(長門は横須賀へ25日に帰投)
    • 榛名の帰還:座礁による損傷で日本回航を決定。28日リンガ泊地出港。29日シンガポールに立ち寄った上で台湾へ向けて出港。フィリピンへの輸送任務を終えて日本へ向かう航空母艦隼鷹部隊と台湾・馬公市で合流して日本へ。途中、隼鷹と駆逐艦槙が潜水艦の攻撃を受けて損傷するも12月12日呉に帰投した。
    • 青葉の帰還:フィリピン沖で潜水艦の襲撃を受けて損傷。修理の上でやはり損傷を受けていた熊野と共に日本へ回航する事になり6日サンタクルーズを出港。熊野が潜水艦の攻撃を受けて脱落(のちに撃沈された)青葉は熊野を残して日本を目指し、12月12日呉に帰投した。
    小麗女島。海軍見張り所があった。青葉の入港シーンなどで登場。

      昭和19年12月

      • 入湯上陸:外泊外出許可の事。(参考:海上自衛隊の艦艇乗員の場合、17時から翌朝課業開始時刻15分前までに帰艦する事とされている。
      • 甲巡:甲級巡洋艦の事。映画版では水原哲が青葉乗り組みと聞いて晴美が「甲巡ですね」と聞いている。(原作では「一等巡洋艦ですね」で正式名称はこちら。「甲」の方で計画名称や条約などで使われる事があった。1930年ロンドン海軍条約での巡洋艦の保有制限が行われたが、その際の条文で甲級巡洋艦、乙級巡洋艦で記述がなされている
      • 青葉:青葉型一等巡洋艦(甲級巡洋艦)のネームシップ。一般的には重巡洋艦と呼ばれる高速かつ駆逐艦より砲雷撃力の高い艦種にあたる。軽巡が水雷戦隊旗艦として雷撃力を重視した艦種とすると、重巡は戦艦に次いで砲撃力が高く雷撃で主力艦の撃破が可能な高速性能を重視した艦種と定義できる。
        レイテ沖海戦では南西方面艦隊所属の第16戦隊旗艦となっていて人員輸送の任務に当たっていた。(それまでの戦闘で機関部損傷を受けており設計最大速力を発揮できなくなっていた事が影響?)
        レイテ戦前後では潜水艦の雷撃を受けて損傷。マニラ湾では攻撃機の至近弾を受けた。(映画で青葉が水柱を浴びるシーンが該当すると思われる)
        姉妹艦の衣笠と同時期建造の古鷹型(2隻)は昭和17年喪失していた。レイテ沖海戦ではそれまでの生き残りの重巡洋艦の多くが戦没しており、青葉の呉帰投は奇跡だったように思える。呉帰投後は防空砲台として停泊したまま呉空襲で交戦。昭和20年7月に警固屋沖で大破着底、そのまま敗戦を迎えて戦後解体された。
      • (海軍)水原哲の階級:軍服右腕の階級章は線3本の兵長になっていた。昭和18年12月時点で既に特技マーク持ち(術科学校の普通科または高等科修了)でもあり、あとは昇進試験をパスすれば二等兵曹に昇進が見込まれる状態だった。
      • (海軍)艦内帽・略帽:戦闘帽とも言う。鉄帽の下に着用する事が出来るように考慮されていた。(作中では周作がそのような使い方をしている。理由不明だが昭和20年6月の海軍病院でも略帽を着用した入院患者たちが見られた)
        海軍の場合士官で2本、下士官で1本ストライプが入っており階級識別が出来た。

      昭和20年2月

      • 陸軍兵士の等級:二等兵→一等兵→上等兵→兵長 (伍長以上が下士官)
        二等兵と一等兵には差はないとされており、入隊時期が早い方が上位とされた。兵長は戦争による召集で古参上等兵・一等兵が増えた為1940年9月に新設された。
        通常、上等兵への昇進は狭き門となっており部隊内での競い合いがあった。
        下士官の役割を分担していた伍長勤務上等兵は兵長とされて伍長勤務制度は一度なくなったが、折からの下士官不足から伍長勤務兵長が新たに設けられて下士官の役割の分担が続いた。
      • 太平洋戦争での兵士の死因:連合軍の反攻対象にならなかった島嶼に配備された部隊などでは補給途絶による餓死が多かったと言われている。また陸軍将兵の場合、輸送船で輸送中に連合軍の潜水艦や航空機に攻撃されて乗船ごと沈められた事も珍しくなかった。
      • 吉島飛行場:広島県広島市中区吉島の埋め立て地に設けられていた陸軍飛行場。江波から見て東側にあった。すずさんと周作が江波の川べりを歩いているとその対岸に向けて双発機が降りて来ていたが、その着陸場所とみられる。戦後はオーストラリア軍のレーダーサイトを経てグライダーの離発着場(未舗装)となっていたが周辺の開発が進み使われなくなった。(参考資料:広島吉島飛行場の歴史
        なお広島空港は1961年に広島市西区観音新町(江波から見て西側にある埋め立て地)に設けられた。広島西空港と改められた後に固定翼の旅客機運航は廃止され(広島県三原町の広島空港へ移転)、現在はヘリコプターのみ運用を行う広島ヘリポートとなっている。(オバマ大統領が広島訪問時岩国基地からヘリコプターでこちらに降りて移動している)
        後に少し場所を変えて広島空港→広島西空港となり廃港となりヘリコプター離発着機能のみ残されて広島ヘリポートとなっている。
      江波港近く。対岸は吉島埋立地。陸軍飛行場が設けられていた。
      • 戦艦最後の呉帰投:大和特攻以外で戦艦部隊の最後の作戦行動となったのは、戦艦日向・伊勢の2隻と軽巡大淀、駆逐艦3隻からなる部隊による南方資源輸送の北号作戦でガソリンやゴムなど南方資源を満載して昭和20年2月10日シンガポールを出港、20日に呉へ全艦無事帰投した。戦艦・軽巡の3隻は二度と出撃する事はなく防空砲台として戦い大破着底状態で敗戦を迎えた。飢餓作戦が1ヶ月早ければ呉に戻る事は出来なかっただろう。

      昭和20年3月

      • 飢餓作戦(Operation Starvation):米軍は沖縄で攻撃中の自軍への日本海軍艦艇による攻撃や陸軍増援部隊の輸送を阻止する事を目的として呉港に対してB-29による航空機雷の投下・敷設を行った。
        航空機雷の投下は呉以外では瀬戸内海、関門海峡やその他の港湾でB-29により大々的に実施された。その数は実に1万2000発を越える。この航空機雷敷設作戦は日本の海外・国内物流機能の破壊(日本の当時の物資輸送は鉄道と船が主力だった)を狙っており、大陸・朝鮮半島との連絡は無論の事、内航船での輸送にも致命傷ともいうべき影響を与えた。
      • 沖縄戦:3月26日から始まっていた。8月15日以後も戦闘を継続する部隊もあり全てが終わったのは9月に入ってからだった。

      昭和20年4月

      • 大和の出撃:6日徳山沖でF-13が大和を撮影。同日夕方、大和、第2水雷戦隊の矢矧と駆逐艦8隻が徳山沖から沖縄に向けて出撃、翌7日に坊ノ岬沖海戦で数次に渡る空母艦載機の攻撃を受けて撃沈された。
        なお9日毎日新聞は沖縄戦に関する大本営発表を掲載、「我方(わがほう)の損害 沈没 戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻」として艦名不詳の形で大和喪失を発表していた。ラジオ放送もあったようで海野十三が日記で触れている。
        清沢洌は外国放送で4万5000トン級の日本戦艦の撃沈について報じられていることに触れて大本営もこれを認めていると日記に書き記していた。
      • F-13:4発爆撃機B-29には写真偵察型が存在しており F-13(英文) と呼称されフェアチャイルド製のK-17/18/19/22カメラを搭載した。(カメラについてはこちらのページで写真入りで解説されている。(英文))目標の選定や戦果判定で不可欠な存在で、山田風太郎の日記ではB-29の単機飛来も書かれており偵察機も多かったと思われる。

      昭和20年5月

      昭和20年6月

      • 呉海軍工廠へ行く女子挺身隊員の鉢巻:Twitterで血染めの日の丸か?(海軍の回天搭乗員の証言の中で女子挺身隊員の方々が血染めの日章旗や日の丸の入った鉢巻を作って贈っていたとの話があったのでそこからの推論)と疑問点を書いていた所、片渕監督から「文官服に似た錨章」とのコメントを頂きました。
      • 「瀬戸内海はもう我らの海じゃない」:このような意味の台詞を円太郎が語っている。(映画)
        先に挙げたB-29による航空機雷の敷設の他に作中では描かれませんがB-24も沖縄から来襲していた。また爆撃機を撃墜できたとしても米海軍飛行艇が瀬戸内海に着水して搭乗員を救助する事を許すような状況になっており、日本海軍が内海であるはずの瀬戸内海も制海権を失っていた。
      • 大和の海上特攻:4月7日坊ノ岬沖海戦で空母艦載機の攻撃により撃沈された。大和の最後について「雪隠詰め」と将棋の表現をしている。航空機雷により関門海峡と港湾が閉塞されたため呉にも帰れず関門海峡を通って佐世保に行く事も叶わなかった。海上特攻を熱望した神参謀の存在もあって結局、徳山の海軍燃料廠に残されていたなけなしの燃料を積み込んで沖縄海上特攻作戦へと出撃する事になった。もし機雷封鎖がもっと早かったら、神参謀がいなかったら、また別の運命があっただろう。
      • 掃海特務艇第16号:トロール漁船ベースの汎用特務艇。この艦艇の目的地や任務をテキスト化の上で公開されている方がおられますが、昭和20年3月までは朝鮮方面で対潜作戦などに従事していた。(船体が鋼鉄製で不向きとの話も
        戦後は賠償艦に指定されて連合国に引き渡された。
      • 耳塞げ、口開け、目が飛び出るでぇ」:宮原四丁目防空壕の取りまとめ役の人が爆発直前に叫んだセリフ。
        「テロの特徴と対処方法」(平成28年2月4日)外務省領事局海外邦人安全課邦人テロ対策室によると爆発事案遭遇時の対処は『爆発に遭遇した瞬間は、肺の損傷を防ぐため「少し口を開け」、首と鼓膜の損傷を避けるため「首の後ろを手の平で覆い、耳をふさぎ」、目を守るため「目を閉じる」。』との事。
      • 焼夷弾:焼夷弾の消し方については「主婦の友」昭和18年10月号でも掲載されており、B-29が本土爆撃に使われ始めた影響が出始めていた。
      • 電探欺瞞紙・チャフ:呉の焼夷爆弾空襲の翌朝、北條家や長ノ木界隈に細長い帯状の白い物体が風に舞い、地面に落ちたり木々に引っかかったりしていた。どうやらこれらは日本軍の電探欺瞞紙か米軍のチャフらしい。
        日本軍は紙に錫を薄くのばしたものを貼って作っていた。
        米軍のそれはチャフ(Chaff)と呼ばれ、アルミニウム・フォイルを薄くのばしたものを攪乱するレーダー波の長さに合わせて切ったものを搭載してきており、B-29のカメラ用の窓から放出して使用していた。(サイパンのB-29戦闘レポートのサイトで簡単な説明記載があります
        呉空襲後で見かけられた物体は爆撃側で日本軍側のレーダーを混乱させたかったはずの米軍のチャフの可能性が高いのではないか。
      • 海軍病院:呉市立美術館・入船山記念館の坂を登っていった先に海軍病院があった。
      旧海軍病院敷地へつながる階段

      • 海軍工廠:現在はジャパン・マリン・ユナイテッドの呉工場となっている。
      こちらのドックには護衛艦いせが入渠中

        昭和20年8月

        • 新型爆弾:いうまでもなく原子爆弾の事。当初は「新型爆弾」という呼び方で報道等されていた。
        • 看護婦:日本赤十字社の看護婦養成所(養成期間3年→太平洋戦争中に2.5年に短縮。寮費無償。月額手当が支給された)で教育を受けた看護婦の場合、一定年数の応召義務期間(最終的に12年間)が設けられており、召集されると従軍看護婦として軍の病院勤務に派遣された。看護需要増大に対して従来の看護婦を甲種とし、採用基準を緩和して養成期間を2年とした乙種が設けられた。(Wikipedia
          満州では現地の女学校最上級生から候補者を募り陸軍看護婦生徒制度による育成も行っていたという。(昭和19年11月に1期生が入校。養成期間6ヶ月)
          作中では知多さんが看護婦資格者だったというセリフがあった。もし日赤看護婦なら召集された可能性もあったはずですが、特にそういう描写はなかったので応召期間が
        • 15日正午のラジオ放送(宮内庁)終戦の詔
          その内容は「主婦の友」昭和20年8月号にも全文掲載された。その時の号は(紙不足などもあってか)1色刷り32ページで文集のようだったという。
        • 灯火管制の解除:8月19日天皇から東久邇首相に灯火管制解除について質問があり、20日正午解除が決まったとされる。なお作家の海野十三の残した日記では24日に灯火管制解除について記録を残している。
        • 太極旗:15日時点では朝鮮独立運動での旗であり植民地統治に対抗して設けられた臨時政府の国旗にもなっていた。これが後の大韓民国の国旗たる太極旗につながっている。日本の敗戦により自由に掲げる事が出来るようになった。
          原作では太極旗を見たすずさんが帝国日本が暴力で植民地を従えていた構図と戦争の構図が同じものであることに気付き、いつの間にか戦争に加担していた自身を知るという展開となっていた。
          2016年版絵コンテ集では「蛍の光」のメロディで歌われる朝鮮愛国歌がかすかに聞こえ日章旗に青インクで作った太極旗が掲げられているとの描写がされており、植民地から収奪されてきた食料に支えられてきた自分たちの生活の実態に気付いた描写が原作に対して足されている。
        • 食糧事情:戦前、台湾と朝鮮半島での米作りが大きく伸びてきており、これらを内地に送って不足していた内地の米需要を補っていた。また植民地の米作りは価格競争力が高く、本国農家保護のために米の統制管理制度が導入された。
          戦争前の昭和16年4月に六大都市で割当通帳制が導入され、昭和17年3月までには全国にて実施された。

          戦中も食糧の植民地からの移入、外地からの輸入は行われている状況にあり米軍が飢餓作戦を展開した事で多大な影響を受けた。すずはヤミ市などで食糧の産地を知る機会はあった。そこから自身の知識、体験を重ねて植民地があってこの国の食卓が成り立っていた事に気付いていたと思われる。

          海野洋「食糧も大丈夫也」という本では戦中の日本の食糧政策について分析をされている。こちらを読むと日本内地は戦前から米不足が常態化していた事、戦前に起きた朝鮮半島での旱魃とタイなどからの米の緊急輸入が行われていた事が紹介されている。
          敗戦間際の飢餓作戦対応については、輸送船を大陸・朝鮮半島から内地向けの輸送船を全て塩と食糧の輸送に振り向けたが、日本海側と朝鮮半島港湾が機雷閉塞していてまともな輸送が出来ず、ついにはドラム缶・樽・ゴム袋に食糧を入れて海流に乗せて漂着させる作戦まで採られたとの証言が載せられている。

          農家のお米が何故都市住民の買い出しで物々交換できるだけの量があったのか。農家についてもどの程度手元に残していいか一人当たりの分量が定められていてそれ以外は買い上げられる仕組みだった。「食料も大丈夫也」の海野氏によると出征者について残していい米の分量計算から外されずに手元に残せたらしく、その分が縁故米などに充当されたのではないかとの仮説を講演会で紹介されていた。

          「主婦の友」昭和18年11月号では節米料理記事が掲載された。そして『台湾や朝鮮半島からの輸入米が多かった当時、戦局悪化で深刻な米不足に。しかし記事の中では「米を運ぶ船を造るぐらいなら、戦闘機を造るのが当然」』と載せていたとの事。(主婦の友社「ニッポンの主婦 100年の食卓」33ページより)

          (参考:「台湾総督府の政策評価―米のサプライチェーンを中心に―」戦前〜戦中の台湾や朝鮮半島などの植民地での米作りが与えた影響について書かれた論文)

        昭和20年9月

        • (海軍)水原哲の階級:すずが見た水原哲の右腕の臂章は1本線に装飾が入っており、二等兵曹となっていた。
          8月15日以後、在籍者を全員1階級昇進させるというポツダム進級が行われておりその結果として二等兵曹となったのか、それとも8月15日以前に二等兵曹となっていてポツダム進級で一等兵曹になっているのかは分からない。(個人的にはポツダム進級で階級章付け替える手間掛けるかなと思うので後者の15日以前に昇進していたのでは?と想像)
        • (海軍)善行章:3年間大過なく勤続した者に与えられる。軍服右腕階級章の上に特別善行章を含め最大5本まで「く」型の記章が縫い付けられた。
          着底した青葉の前に立っていた水原哲は善行章を1本付けている。昭和19年12月の時点ではなかったので、おそらく昭和17年入隊で昭和20年に3年を経過して与えられたのであろうと推測。

        昭和20年11月

        • "NEW DAY":「この世界の片隅に」サウンドトラック最後のビッグバンド・ジャズ。未来を予感させるいい曲ですが、オリジナル未使用曲かと思ったらとんだ間違いでした。ちゃんと使われてました。
          参考:otocoto 『大人気映画の感動をさらに深くするために知っておきたい音楽の秘密!『この世界の片隅に』咲くコトリンゴという花』
        • 進駐軍:呉には当初米軍が進駐、その後英連邦軍と交代した。(従ってこの時期の連合軍=米軍となっている)「主婦の友」昭和20年12月号にはカラー口絵で連合軍ジープに日本の少女が乗って兵士から絵を描いてもらうというページが載った。
        • :敗戦前の段階で塩の配給が滞りだしたようで(末期の朝鮮半島から内地に向けた食糧緊急輸送では塩も対象に入っていた)戦後もすぐには改善しなかった。「主婦の友」昭和21年2月号には塩の精製の仕方が載っている。燃料を大量に必要とするため天日で水分を減らしておく事を勧めている。

        昭和21年1月

        • 入市被爆:原子爆弾の爆発直後に爆心地へ身内捜しや救護で入った人達にも原爆症の症状が出ており、爆発時の被爆と区別する場合は入市被爆と呼んだ。
          原作だと原爆攻撃直後に広島に救護活動に向かった人について入市被爆原因の症状を疑わせる描写が入っている。
        • 原爆白内障:白内障とは眼の水晶体が濁る事で白っぽくもやが掛かったように見え、症状が進むと最悪失明に到る。原爆白内障ではドーナツ型の混濁が特徴の一つとされており被爆後3ヶ月〜10年程度の潜伏期間を経て発症する。老人性白内障と組み合わさる事で視力障害につながりやすい。
        • 建物疎開の学生たち:8月6日のあの時、学生たちが勤労奉仕で動員されており建物疎開の作業で集まっていた教員と学生全員が亡くなった。堀川惠子「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」に詳しく触れられているが、娘さんを二人亡くされた地元漁協の方(保守系の人)が戦後広島市の革新市政の助役として入り平和公園と供養塔の構想を実現できるように奔走された話が載っている。この方はほとんど内心の話をされなかったそうですが、娘さんの学友(あの日たまたま休んだ事で無事だった)の取材には応じられていて記録が残った。
        • 児童福祉法:1947年成立。それまでの戦災孤児対策は強盗や窃盗をさせない為に刈り集めて施設収容するというものだった。GHQとのやりとり後、児童福祉法が作られて児童福祉制度が形作られていく事になった。あの子はこういう保護がない時に数ヶ月生き延びて来た事になる。
        • 山代巴「この世界の片隅で」:1965年に岩波新書より出された広島の原爆攻撃で被害を受けた人々のその後をテーマとしたノンフィクションで現在は絶版。
          「この世界の片隅に」のタイトルが本作の影響を受けたものかどうかは不明。
          →2017年3月22日取次搬入で40年ぶりに再版されました。岩波新書のTwitter公式アカウントでの案内を読むと「この世界の片隅に」の影響とのこと。
        • 海軍省・第二復員省:海軍の行政系組織であった海軍省は昭和20年11月末まで存在した。昭和20年12月1日より第二復員省に改組された事で海軍の名前が消滅した。(周作はこの段階で退官している)
          第二復員省は昭和21年6月15日に復員省と統合されて復員庁に改編された。昭和23年1月1日に復員庁は廃止され、第一復員局は厚生省に、第二復員局は総理府直轄に移管された。
        相生橋はあの日には損傷を受けたが修理の上で使い続けられ、
        昭和58年架け替えによりその一生を終えた。

        そして戦後へ

        • 呉港の船:もし最後のカットが昭和27年ならば、呉NBC造船部建造のペトロ・クレ(当時の世界最大のタンカーとして11月進水。本船の艤装はその後行われた)かもしれない。戦後新造船第1号はこの船らしいので可能性は高い。確証は取れていませんが……。
          →監督にパンフレットサイン会で聞いてみたところ、ペトロ・クレは残念ながら時期が違うとの事なので絵コンテ集で書かれている通りの年のようです。
          ※ナショナル・バルク・キャリア呉造船部については前間孝則「戦艦大和の遺産」「世界制覇」に詳しい。
          また次のサイトでも経緯が触れられている。「支援の萌芽とそのフィールドの紹介:戦争直後のNational Bulk Carrier呉工場での現場での支援」(上)(下)
        灰ヶ峰から見た呉・広

        3.登場人物たちの名前の由来

          登場人物達の名前、周期表由来との事だったので入れてみました。こうの史代さんがラジオで公式説明された分は(※1)を末尾に添えてあります。

        浦野:ウラン

        • 十郎:ロジウム(※1)
        • キセノ:キセノン
        • 要一:ヨウ素
        • すみ:炭素

        森田:モリブテン

        • イト:イットリウム
        • マリナ:鉛?
        • 千鶴子:窒素

        北條:ホウ素

        • 円太郎:塩素、円
        • サン:酸素、円周率の整数部の3より
        • 周作:臭素、円周
        • すず:錫
        • ヨーコ:陽子?

        黒村:クローム

        • キンヤ:金
        • 径子:珪素、円の直径・半径より
        • 久夫:ヒ素
        • 晴美:アルミニウム(※1)

        水原:水素

        • 哲:鉄

        白木:白金(プラチナ)

        • りん:燐

        隣保組・その他

        • 小林:コバルト。円太郎の姉夫婦(径子・周作の叔父・叔母)
        • 刈谷:カリウム。愛知県の地名
        • 知多:チタン。愛知県の知多半島より
        • 堂島:銅
        • テルちゃん:テルル(リンさんの同僚)
        ※1:2016年11月27日放送のTBSラジオ「プレシャスサンデー」でこうの史代さんが元素周期表を用いて命名と解説。先にキャラクターの名前を決めて作品作りするが、呉の周りで地名が適当ではなかったのでとの事。なお北條家は全て「円」由来のダブルミーニングになっているとも説明された。


        4.参考資料