2017年1月5日木曜日

映画「この世界の片隅に」での救い

   「この世界の片隅に」は最初に戦前の日常を少し見せ、すずさんが嫁いでからは物資の引き算が始まり、そして連合軍の爆撃が本格化した所から、人の命が奪われる局面へと入っていき、最後は敗戦によって少しずつ日常へと回帰していく物語となっている。

 この作品では逝った人、生き延びた人それぞれに救いが描かれている事がある。少しの出来事が相手にとってはとても大きな救いになっている事もあった。その事を少しまとめてみたい。

以下、原作や映画の核心部について触れている部分が含まれますので、映画をご覧になった方、原作を読まれた方のみご覧下さい。































あの子

  昭和21年1月、すずさんと周作と広島で出会い、二人の子どもとなったあの子。(ちゃんと名前もあるのですが原作、映画とも作中では出てきません。絵コンテ集や小説版で確認できます。また、こうの史代さんがインタビューやトークセッションで言及されていた事もあったと記憶)

  原作だとすずさんがこの子に「あんた… よう広島で生きとってくれんさったね」と言う。(映画版ではこの台詞は省かれている)
  先日、筆者は相生橋に行き、原爆攻撃を受けてなお残った県産業奨励館(原爆ドーム)や大正屋呉服店(現レストハウス)を見た。そしてこの台詞はとても合っていると実感した。
 失われた人の命。形があったものがその形を失った。そういう中で助かった人は生きるための戦いが続いた。大正屋呉服店の建物は燃料関係の統制団体が所有していたそうですが、戦後すぐ修理されて使われたという。あの子はあの日を乗り越えた広島という場所やそこに生きた人たちを象徴させた存在でもあったのだと思う。
 映画はすずさんと周作が言葉を交わす事なくこの子を自分たちの子として育てる決断をしている事をクローズアップしている。この二人が両親や径子と関係なく夫婦として何かを決めたという事自体が初めての事だった。

県産業奨励館(原爆ドーム)。ここだけは時が止まっている。

大正屋呉服店(現レストハウス)
1Fの窓は竣工当初はショーウィンドウになっていた。

  日本の戦災孤児対策は治安重点(強盗、窃盗の元と見なされていた)で刈り込んで収容するという体のものでしかなくGHQの介入もあって1947年にようやく児童福祉法が制定された。あの子が広島で数ヶ月生き延びてきた事は奇跡に近い事だった。
  そんな中、みぎての導きですずさんと周作とあの子は出会ったように見える。その一方でそんなのは偶然の出来事だった事も描写されている。あの子は自分のお母さんが右手を失ってなくなった事を覚えている。そしてすずさんは晴美ちゃんを失った時の爆発で右手を失っていた。その事が偶然符合した事でこの二人は結び付いたのだから。
  みぎてが姿を見せた事を考えなければ全ては偶然の出来事。でも、すずさんとあの子のお母さんのちょっとした符合がすずさんと周作、径子とあの子を結びつけてお互いに救いを与える関係を生み出すきっかけとなった。そういう偶然を人はつい奇跡と呼びたくなる。そこにみぎての介在が少しでもあったのだと思いたくなる。

すみちゃん

  すずさんの妹のすみちゃん。あの日、江波のお祭りの準備で出かけていたお母さんが原子爆弾の爆発後行方知れずとなり、お父さんとすみちゃんの二人で探し回った。そしてお父さんは10月に急性の原爆症を疑わせる形で急死。昭和21年1月、すみちゃんも草津の祖母の家で体調を崩して寝込んでいた。
  すみちゃんはすずさんに「ううん…… 早よう帰って来んでえかったよ」と言った。もしすずさんが救援隊に加わって江波に来ていたら。間違いなく父、妹と一緒に母親を探しに爆心地近くまで入っただろうし、そうなればすみちゃんと同じ目に遭っていただろうから。だからすみちゃんは姉に「早よう帰って来んでえかったよ」という。姉が同じ目に遭わなくて良かったという。
  すみちゃんは姉に右手を失っては婚家に居づらいだろうから広島に帰ってきたらいいと見舞いに行った時に言っていた。でもそうならなくて良かったと思っている。姉が巻き込まれなくて良かったと思っている。父と兄を亡くし、母が行方知れずのまま。そんな家族の中で姉が無事だった事を良かったと思っている。
  すみちゃんの登場はこれが最後となっている。こうの史代さんの別作品「夕凪の街 桜の国」を考えれば、すみちゃんが健康を回復したかどうかその可能性は大変厳しい。でも決定的な事は触れずに一筋の希望を読者に残して物語は一旦閉じている。

鬼いちゃん、要一

  すみちゃんから見て要一はすずさんをいじめている人に見えたらしい。少し嫌っていた要素もあったようで兄の「遺骨」ならぬ石を見て「鬼いちゃんの脳みそ」という事を言ったりしている。
  すずさんは昭和10年に草津へ行った際に「厳しい人じゃった」と触れていて実はいじめられているという認識はなさそう。ただ哲に兄をあげてもいいとは思っていたので、時に厳しすぎてつらかったなあという感覚はあったのかも知れない。
  世間的には哲曰く「浦野の兄を見たら逃げえという男子の掟がある」だったそうなので名前の轟いていたガキ大将だったのかも知れない。ただそれが正義からなのか単なる横暴なのかは原作も映画も明確には描いていない。
  浦野家の食卓は父や長男が一品多いというふうな事をやっている描写はない。江波の埋め立てで廃業するまで海苔を家業として家族総出でやってきた家なので何気に公平だったりする。すみちゃんは末っ子なので兄に対してきつく見ていた所はありそう。そしてすずさんは横暴だけどある種の正義を持っている人とみていたような感じを受ける。

江波山の気象台(現気象館)と江波港
そんな姉妹が昭和21年1月に顔を合わせた時、鬼いちゃんの事を思い出しながら彼の戦死を必ずしも確信している訳ではない描写が入る。そしてすずさんは兄を主人公にした漫画を見えないみぎてで描き、すみちゃんにどんな内容か語ってみせる。やはり二人の中では鬼いちゃんは死んでいないのだ。
  映画では相生橋で語り合うすずさんと周作の二人の前にバケモノの人が再びやって来てワニのお嫁さんが姿を見せる事で鬼いちゃんとオーバーラップさせつつ、手を振って去って行った。ここで昭和8年12月から起きて来た出来事は一度輪を閉じて、新しい物語の始まりを告げている。

テルさん

  その姿は原作でしか描かれていない。映画では「テルさんの紅」としてのみ登場する。何故この紅がすずさんの手元に行く事になったかは今のところ原作を通してしか分からない。
昭和20年4月
「テルちゃんは死んだよ」
「死んだ!?」
「あの後肺炎を起こしてね 雪も解けんうちよ ずーっと笑ろうとったよ すずさんの 絵を見て」(三分冊版中巻134ページ 2009年12月8日第6刷底本の電子書籍版より)
  テルさんは朝日遊郭の遊女だった赤毛の女性。昭和20年2月、「まあ 好きっちゃ 好き」「知らん人っちゃ 知らん人たい」「なんや 切羽詰まって 気の毒 やったと」という程度で川への身投げ心中に付き合い風邪を引いて寝込んでいた所で格子窓越しにすずさんと出会った。
「暖(ぬく)い外地に渡れば良かったかも知れんちゃ」とテルさんに言われたすずさんは南洋の海岸の絵を雪の上に描いてあげ、テルさんはそれを見て笑った。彼女とすずさんの邂逅はたったこれだけの事だった。

  昭和20年、外地の話題と言えば「敵の上陸で勇猛果敢な戦闘を繰り広げたが全員壮烈な戦死を遂げた」か、報道で取り上げられずに状況が分からなかった頃に「暖い」からと渡れば良かったという。
  生きる事に希望を全く抱いてないから(多分それぐらいでは死ぬ事はないと分かっていた節はあるものの)心中に付き合うし、おそらくは危険性を分かっていても暖いからというだけで外地の方が良かったかも知れないと言ったようにも取れる。

  すずさんとのごく僅かな一度の出会い、すずさんの描いた絵によってテルさんは何かしら救われたのだと思う。そうであって欲しい。

灰ヶ峰を望んで。右の道路を上がっていくと朝日町。
左の道路へ進み先で少し北に上がると三ツ蔵がある。
追記:テルさんの紅には桜の花びらが一枚入っている。原作を見るとこの花びらはリンさんの事を表しているように見える。この紅をすずさんに託したリンさんは6月の空襲で行方知れずになっていて作中に登場したのはこれが最後だった。そんな紅も7月末の艦載機による空襲の最中に手提げ鞄に機銃掃射の弾が当たってこの世から消えてしまった。だから、みぎてはこの世に存在しなくなったもの同士でリンさんの事を描いて見せたのだろう。