2016年12月6日火曜日

映画「この世界の片隅に」みぎては消えてなお、すずさんを助ける

ネタバレありの感想です。映画をご覧になった方のみお読みいただければ幸いです。




















1. 周作、カイブツとすずさんの出会いの謎
  昭和8年12月。すずさんと周作の出会いで何があったのか。これも何気にすずさんの「みぎて」が大いに関わっているエピソードでした。
  すずはあの日のキャラメルの味は記憶していたが、カイブツとの物語を漫画(紙芝居?)に仕立てて妹すみに語ってみせたものの、何があったのかは覚えていないと言う。この為、本当のところは周作でないと語れないはずなのですが、すずに対してすらあの日何があったのかは言わず、ホクロがあるから見つけられるとしか言わない。劇中で2回この台詞を言っている訳ですが、映画では描かれなかった原作のみのエピソードを考えると最初は自身に言って聞かせる為のものだったかもしれない。
  そんな周作も昭和21年2月には周作とすずは一緒にカイブツを目の当たりにして驚いていて、昭和8年12月にこの3人は出会っていて何かあったのだろうなと思わせる展開が映画では付け加えられた。(原作だとすずがカイブツの望遠鏡への細工で海苔を1枚欠品させてしまい十郎が謝りに行っているエピソードもあったので、何かあった事は確実らしい)

2. 夢を見続ける事を選択しているすずさん
  すずは夢を見続ける事を選択していて茫洋としているようで、選択する事への躊躇がなく、後悔もしない。足場は何気に強固。
  そんな彼女が選択した事に対して強く後悔の念を抱いたのは作中では2回だけ。1回は昭和20年6月22日の晴美を失う事になった選択の数々に何処か逃げ道はなかったのかという事だけだと思う。
  あと1回は7月艦載機の空襲の最中に周作に叫んだ「広島に帰る」。これは晴美と右手、リンの喪失が全て呉を選んだ事にあるのではと思ったから出てきたようにも見える。そんなすずの迷いを吹っ切らせたのは周作は水路の中ですずをかばいながら思いを吐露し、8月の径子さんは「居所はここでもどこでもいいからすずさんが選びなさい」という姉としての心からの言葉だったのだと思う。径子さんの言葉は下手したら周作より言葉の重みがあったかもしれない。

3. 風来坊となった「みぎて」
  すずの右手が彼女の元に現れたのは昭和20年8月15日。もう呉港に魚が大量には揚がらない(砲爆撃がないから魚が気絶や死んで浮いたりしない)という小林の叔母の言葉からすずは晴美ちゃんと一緒に魚の絵を描いた事を思い出し、そこからすずの「みぎて」が幻出して彼女を労った。すずの頭を撫でるのは周作と哲と「みぎて」の三人しかいない。
  戦争中、北條の家族にも隠していた絵を描くという特技を生かそうとして憲兵に捕まってしまっている。あの日、軍艦の絵を描こうと思うまでは、広島との別れの際に書いた絵が最後の機会だった。そしてこの騒動で北條の家族にバレて公認になった後に描いたのは劇中だと(1)りんと出会った際に地面に書いていたスイカ、キャラメルとその後りんのリクエストに応じて紙に描いたお菓子、(2)すずの元にやってきた哲の為に描いた鳥の絵、(3)呉に揚がった小魚を晴美ちゃんと一緒に描いた魚の絵、(4)周作が海兵団に行く前の夜に彼の寝顔の絵、(5)地面に描いた径子と晴美の似顔絵の5回しか描く機会がなかったし、周作が憲兵に没収されたスケッチ帳の代わりにくれたメモ帳も7月の米軍機の機銃掃射で失われた。
  すずの創作の源は右手の身体性にも依るところは大きかったであろう事は、すみに鬼いちゃんの南洋冒険記を語った際に「みぎて」が姿を現して描いた漫画をすずが語ってみせた事でも表現されている。
  8月15日、すずや径子さん、朝鮮半島から来ていた人と三者三様の形で戦争を通じて我慢してきた事を怒りと悲しみを爆発させている。すずの「みぎて」もやはり戦争で我慢をして遂にすずの手元にある事を奪われてしまっている。
すずさんの「みぎて」は自由、創作する事の象徴なのだろう。自由な想像が出来るようになった故に8月15日の夕食の場ですずを労り、すみちゃんの為に物語を紡いで二人の中に鬼いちゃんを蘇らせ、周作とすずの二人とヨーコが出会うきっかけを作った。
  そしてリンさんを物語るためにテルさんの紅の元へと去って風来坊となった。実体を失って想像の力を得た「みぎて」はどこかに留まるような事はなくなったのだと思う。
  今は映画館で観客にすずとりんの物語を見せ、最後に手を振って見送ってくれている。すずさんの「みぎて」は自由だ。本当は彼女の右手としてそうなれば良かったのにと思う。