2016年11月21日月曜日

「君の名は。」「この世界の片隅に」が見た「夢」

(注意喚起とお願い)映画「君の名は。」「この世界の片隅に」のストーリーの核心に関わる内容が含まれます。
また書いている作品内容の解釈は筆者個人の仮説を含みますのでご了承下さい。
















「この世界の片隅に」が見る「夢」

 すずは周作が呉の繁華街にデートに誘ってくれた時、周作と結婚して呉に来た事を「夢」に例えている。姓が北條に変わり呉に住むようになった事で、結婚前の自分からの変化を「夢」と認識している。
それを聞いた周作は選択しなかった事は目覚めてしまった夢と同じだと言った。

 本作の昭和8年12月パートで周作はすずを見初めている。何故かすずはこの出会いを夢のように捉えていて、その様子を妹のすみに紙芝居で絵にして説明をしているが、何が実際にあったのか今ひとつ分からなくなっている。周作もこの日の事を全て語るようなことはない。

 本作は現実世界との地続き感、リアリティーが高い構造を持った物語ですが、いくつか不思議な描写が組み込まれており、昭和8年の人攫いエピソードはその最たるものになっている。

 昭和21年1月二人は広島の被災した産業奨励館(後の原爆ドーム)前で待ち合わせた。二人はこの時、多くの人から他の人と間違えられる。原爆のせいで行方不明、連絡がとれなくなった人を探し求める人々が多かった為だった。
 二人は昭和8年12月に初めて出会ったという橋に行く。そこで周作はすずさんならいつでも顔のホクロですぐ分かるから見つけられると言い、すずはもうずっとそばにおって下さいと応えている。

 誰もが人を探している広島の橋の上での会話は、もしもお互いを見失ったらという恐れを感じ、そして周作はそんな時でもすずを見つけるよと言ってみせている。

 考えてみると本作では周作とすずはしばしば橋の上で重要な転機にもつながる会話が繰り返されている。昭和8年12月をきっかけとした周作の一方的にすら見える恋は今や片方向ものではなく、すずの方の想いもある事が明確に示されている。そしてこの後、二人は北條の両親に相談する事なく二人で初めて大きな決断をしてみせた。二人の関係に大きな転機が起きた瞬間であり、それは北條の人達にとっても、あの子にとっても救いとなる選択へと結び付いた。


「君の名は。」の見る「夢」仮説

 「君の名は。」で言う夢とは多義的に見える。
 一つの意味は三葉と瀧の入れ替わりであり、もう一つは2021年秋以降の「現在」から瀧と三葉が夢として過去にあったであろう事を「夢」で見ているという事ではないか。そしてこの「夢」は翌朝、起きた時にその記憶を失って涙しているように見える。

 2016年10月の瀧の視点で見る情景は現実世界と異なる事項が異様に多い。東海道新幹線は逆向きに走り、三葉に入れ替わっている時、宮水家の茶の間の振り子時計は時を刻むのを止めていて音もしない。(9月3日三葉本人のシーンでは振子は動いているし時計の音もしている)
週末でもないのに飛騨旅行が敢行され、三葉たちは死んでいる過去の人達だと言われると記憶がその場で改ざんされて三葉が登録した日記エントリーはなかった事に変質した。

 夢で再現を見ていて本来の時空での記憶との違いが一定範囲内であれば気付く事なく夢を見続けている。もし一定以上の違いがあれば、記憶を変えるか目覚めてしまうというような事が起きているのではないか。そうとでも考えないとあの世界の異常さを完全に説明するのは困難だと思う。


二つの世界の「夢」の違い

「この世界の片隅に」の夢は、覚めない夢=すずの選択、覚悟であり、覚めてしまった夢=現実では選ばなかった事(周作)だと言える。

 「君の名は。」の夢は目覚めたら忘れてしまうものながら現実に干渉する事ができる手段でもある。ただ瀧に関しては干渉する事が自らの未来も変える要素であり、何がどう変わったのか知り得る手段は持っておらず、決して全貌を理解する立場にはない。(これは三葉も同様)
 と考えると「君の名は。」覚めてしまった後の夢こそが現実であり、それをどう乗り越えて行くのかをエピローグで二人に突きつけていたと思う。

 周作はすずの顔にほくろがあるから見つけられると言った。彼はすずとの出会いの10年後に浦野すずという名前だけを手掛かりに辿り着き見合い話に結び付けた。(原作追求すると彼の動機はまた変わってくる訳ですが、ここではその部分は考慮しない)

 瀧は三葉の記憶を失う中でそれでも世界のどこにいても見つけてみせると心に誓いつつ彼女の名前を失った事の喪失を山頂で叫ぶ。
 三葉も最後の説得のため走る中で瀧の名前を失い「君の名前は?」と叫び転倒する。それでも何かを決意して再起して走りきってみせる。
「君の名は。」は相手に対する記憶を名前に象徴させて見せている。

 全く異なるアプローチの2作品ですが「夢」が重要な役割を果たしているという点で共鳴しているのが非常に不思議な気がする。

 この2作品、歌はともに4曲でいずれもオープニング付。スタッフは「君の名は。」の口噛み酒トリップのパートを担当された四宮氏が「この世界の片隅で」の水彩画を担当。(製作時期が被っていて大変だったというツイートをされていた)

 邦画の傑作として記録と記憶に残りそうな作品で共通項が多く同時期に公開されたというのは偶然とは言え面白い現象じゃないでしょうか。願わくば「聲の形」を含めこれら2016年3作品の後に続く傑作が毎年出てくるようになる事を切に祈ってます。