2016年12月17日土曜日

普通の子たちが主人公となり、普通の大人となっていく物語

 ある雑誌で「君の名は。」批評記事が載っていたのですが「美男美女」と書いていてそう単純な描き方はされておらず違うのではと思ったので少し考えをまとめてみた。
ネタバレ要素は低くしてありますが、映画をご覧になられてない方は回避推奨。
履歴:
 2016年12月17日(土)章立て設定と記述追加
 2016年10月29日(土)公開






























1.瀧と三葉 喧嘩っ早い建築少年と引っ込み思案な神社の巫女少女
  瀧というキャラクターは三葉から見ると「イケメン」(2016/9/5日記)だが、奥寺先輩には喧嘩っ早いけど弱い(2016/9/5事務室)と評されている。実際、エピローグの中での瀧は大変苦労している様が描かれていて、主人公として何か持って生まれた物がある訳ではない、ごく普通の子だった事に気付かされる。

 対する三葉は母親譲りの美人に加えて地元の名家の長女で家業の神社の巫女というステータスはあるものの、家庭では小学生の妹の方がしっかり者で姉の事を心配してみている描写が頻繁に入り、学校では幼馴染み三人組で固まっていて他のクラスメイトに混ざってはいない。またクラスのヒエラルキーの上に位置するらしい三人組からは父親の事が揶揄されていて、三葉な瀧がこれに反発して見せたところ(2013/9/12美術室)、翌日朝にはクラスメイトから三葉の事を「見直したわ」という声が聞こえてくる。瀧も三葉に対して日記であの三人についてもっと堂々としろよみたいな事を書いている始末。
 このように三葉はクラスの女王にもなれそうなのに(秀才?と思ったら瀧にさんざ英語のノートに「ここ、おかしいだろ!」とお叱りの言葉が書き込まれていたので中程度なのか)、そのような立場にはいない。三葉もやはりごく普通の子だし、そこから脱却したいと思っている訳でもない事がヒシヒシと伝わってくる。彼女の将来への希望はあくまで東京で暮らす事、その一点に尽きる。

2.非日常の物語での成長と日常の物語への回帰
  こんな彼ら二人が主人公として成長していく事になるのは入れ替わりの中での関係性の変化が引き金になっている。瀧も三葉もそれぞれの理由で相手と直接会いたくなり、実際に行動を起こした事で物語が大きく動き、その中で二人は成長を遂げていく。
 瀧の行動は幸運に恵まれて他者の手助けを得て抗っていく。瀧には目標意識はあっても達成するための手段がない。その手段を提供したのは最初はラーメン屋の親父さんであり、次いで三葉の幼馴染みのテッシ、早耶香と三葉自身だった。(三葉については作中の「前前前世」途中の歌詞で予言されている。彼女自身が瀧にとっての武器だ)
 他の方が指摘していてなるほどと思ったのですが、テッシと早耶香が欠けていたら瀧と三葉の二人では何も出来なかった。あの二人がいたからこそ瀧と三葉は事を成就出来た。その代償は日常への回帰と忘却またはある時点への「初期化」だった。

3.そして人生は続き、彼らは再び初めて出会う
瀧も三葉も主人公としては完璧ではない普通の高校生キャラクターといって良い。でもそんな二人だったからこそのリアリティがこの作品にはある。
 映画世界で果たした二人の役割は中の登場人物たち、いや本人達にも分からない。瀧と三葉の主人公性は彼らの内面にある。そしてその事は観客だけが知り得る構造になっている。
 この作品はある華々しいクライマックスだけを描いている訳ではない。二人の人生を切り取って見せている作品でもある。日常に戻って何かを忘れたまま時は容赦なく進む。彼らの人生は続いていき、そしてあの夜、あの非日常状況下での二人の主人公性は失われたはずだった。そんな普通の二人が再び初めて出会う機会に巡り会うという必然で物語は終えている。この後は彼ら二人の選択、普通の人の人生が待っている。大げんかするかもしれないし、どちらかが転勤で会えなくなるかも知れない。ひょっとしたらみんなに祝って貰う中で結婚するかも知れない。そういう世界を歩んでいく事が分かる。

4.人と人の結び付き、そして自由と可能性
 「秒速5センチメートル」は本作を見てからリバイバル上映で見ました。凄く普通の物語を作っていて意外な印象を受けた。で、食わず嫌いになっていたのかなと。本作と「毎秒5センチメートル」「言の葉の庭」は同じ箱に入れて考える事が出来ると思う。
 「毎秒5センチメートル」は二人の終わった関係を、
 「言の葉の庭」は挫折と再起と立場の違う二人の恋を、
 「君の名は。」は「運命」と思える出会いが何故起きたのかを描いている。
 ただ「君の名は。」はそれだけではなく、日常と非日常、男女の入れ替わり、主人公たちが災害の被害をどう覆すのかという制約の中での抗い、時間SFのようでおそらくそれだけではない複雑な世界の法則を動かしその結果を見せるという試みも入れてきている。重層的に作品世界を作り込んでいて表層で何かを決めつけて見てしまう事も出来る。
 でも、もっと掘り下げてみると瀧と三葉が自身をどう定義付けているのか、そして友人はどうみているのか、またその性格が故郷などと結び付いていて、ほどけた時にどういう自分が現れるのかという事を追求した描写が為されている事が見えてくる。個人的にはこれをやられたくて複雑な世界を生み出したのではないかとすら思える。

 既に青年でも少年でもない中高年齢層の受容について、観客自身の過去の体験を振り返るからだという論を示している評論も見かけるが、こんな普通の二人が直面した試練の先にある可能性を見せられれば応援して上げたくなる感情があると思う。時の経過の持つ痛みを知っているのはなによりこの層なのだから。
 そしてこのような感情を引き起こすのは優れたストーリーが構築されていないとあり得ない。良いと思った事に難しい理屈を作り出す必要はない。面白く感情が揺さぶられる時の経過を物語として示せている。だからこれだけの支持を得ているのだと思う。


2016年12月17日追記 本作世界は瀧視点だと異常な表現が多くなっています。(三葉視点で異常な表現は選挙運動が1ヶ月以上前から始まっている事のみ)特に地図と太陽・神社・高校・御神体の山との位置関係はよく分からない事があります。
 10月2日御神体登山からカタワレ時までの間はおそらくリアルタイムの映像を我々は見ているのではなく、起きた事を見ている瀧の視点で再解釈したものを見せられているのではないか。例えば糸守高校で瀧の脳裏に彗星の夜のフラッシュバックが入る訳ですが、それは2回目の10月4日以外考えられない。なので1回目の10月4日が起きた後の世界は実際にあったとしても誰かの記憶で見ているとしか思えない。
こんな世界の物語なので、また何か見つけたら意見が変わるかも知れません。